出店者紹介,ジャンル:CRAFT

TOKIIRO

【TOKIIRO プロフィール】
10年前から千葉・浦安にアトリエを構え、イベント出店やワークショップなどを通じ、多肉植物のある暮らしを提案し続けているTOKIIRO。ぷっくりと膨らんだ葉やうねりのある茎など、神秘的な姿の植物を器の上に絵を描くように植えていきます。現在、NHK「趣味の園芸」の講師を務めたりと多岐に渡り活動中。季(とき)の色を感じる大小様々な多肉植物がひとつの器にアレンジされ、その姿に惚れ惚れとしてしまうことでしょう。
http://www.tokiiro.com

【TOKIIROの年表・YEARS】

【TOKIIROさんインタビュー】
最近では手軽に購入できるようになった多肉植物。ぷっくりと可愛い葉や、個性的な形の植物に癒されている方も多いはず。TOKIIRO・近藤義展さんの作る多肉の寄せ植えは、小さな鉢植えの上に何種類もの品種の植物たちが、絶妙なバランスを取りながら共存しています。実は多肉の道へと至るまで一筋縄ではいかない体験を持つ近藤さんに、浦安のアトリエでお話をお聞きしました。

好きなものに没頭していた学生時代

ーーー近藤さんは昔から植物がお好きだったのですか?
近藤:小さい頃からミュージシャンになるのが夢で、大学に行っても音楽に明け暮れた日々を送っていました。パートはキーボードで曲作りも自分たちでして、プロの道へと突き進んでいきました。

ーーー音楽の道に進んでいたんですね
近藤:プロになってしばらくして気がつきました。どんなに努力しても1%の才能を持つ人たちには敵わないって。あまり他の人たちがどんな音楽を作っているのか、流行りはどういうのかなど、周りのことは気にしない性格だったのですが、ある時から曲を作ることができなくなって、「あぁ、自分には才能がないんだな」って悟って、ほどなくして違うことをしようとなりました。

ーーーなるほど。それで音楽から植物の道へ……。
近藤:いや、今やっている多肉との出会いは結構最近なんです(笑)。音楽を辞めてからは、自分で事業を立ち上げたりして今とは全然関係のない仕事をやっていましたよ。自分の価値は自分でしか測れないと思っていた時期があって、どこかの会社に入ってお給料をもらっても、それは本当に自分のスキルに対して正当なものなのか、と疑問を持っていたので、自分だけでできる仕事をしようと移っていきました。

個人事業とうまくいかない日々

ーーー個人事業をいきなりはじめたのですね。そのときはどんなことをされていたのですか?
近藤:まずは事業を始めるにあたって、帝王学や成功哲学とか、仕事でどうやったらちゃんとお金を稼ぐことができるかを徹底的に学びました。そこで見つけたのが、“まだ世には出ていない未来の製品”を作っているメーカーの代理店の仕事です。今で言うiPhoneのような、その当時はまだ使い方もわからないような物を作っている夢のような会社がありました。そういった物を扱って販売していたのですが、何と言っても誰も使ったことがない、前例のないものを売るわけだから、買ってもらうのは大変でした。

ーーーたしかに、未知の道具に対して最初は怪しんでしまいますよね。
近藤:なので、物を売ると言うよりも、“自分”を売る、という表現のほうが正しいかもしれません。まずは近藤義展というひとりの人間を信用してもらい、この人が勧めるなら間違いないと思ってくれるアプローチをしていきました。こういう時に学んでいた帝王学とかが活きてきましたね。

ーーー夢の道具を売り歩く商社マン、と言ったところでしょうか。かっこいいですね。
近藤:でも、長くは続きませんでした。プライドだけが高くなって、間違った方向に進んでいても自分の考え方を変えられなくなっていったんです。「かっこよくいたい」、そう考えてしまって、今考えれば全然かっこよくないのに、それが正解だって思ってしまっていて。先輩たちからの忠告やアドバイスもたくさんもらっていたのですが、受け入れられずにいました。冷静になって思い返せば、大事なことをたくさん言われていましたよ。それで、事業がうまくいかなくなって、借金だけが増えて生きていくのさえ辛くなっていきました。

ーーーそこから今に至るまでどんな心境の変化があったのでしょうか。
近藤:その頃は家賃を払うのもままならなくて。でも、先の見えない生活でも猫は飼っていたのですが、その子のご飯は「何としても食べさせなければ」と思っていたんですよ、自分が食べるのも精一杯だったのに。だけど本当に仕事も無くなり、何もすることがない日々が続いて、もう無理だと人生の終わりを悟りかけた時、猫の「にゃー」って鳴き声を聞いてハッとしたんです。自分が居なくなったらこの子はどうやって生きていくのだろうと。この時から死に物狂いで何でもやるようになりました。

ーーー飼っていた猫に救われたのですね。
近藤:そうですね。それからは知り合いからの紹介で、地デジアンテナの交換の仕事をはじめました。まだ地デジって何? と思われている時期で、中々理解を得られない方にも根気強く説明したりして、アンテナの取り付けなど行っていました。他人と協力して何かを成し遂げる、ということもこの時が初めてでした。

ーーーずっとひとりだった近藤さんの仕事に、他の方が関わるようになっていったのですね。
近藤:誰かと協力して仕事をしたことがない、と言うよりもひとりのほうが良いと思ってきたので、考え方が180度変わりました。仕事も順調に進むようになり、だんだんとお金も入るようになってきて、安定した生活を送れるようになりました。それからしばらくして、ここから今に繋がる出来事が起こり始めます。

多肉とのはじめての出会い

ーーーここまで目まぐるしい経験をしてきた近藤さんが、ついに多肉の世界へ!
近藤:出会い自体は山梨にある八ヶ岳倶楽部というところでした。でも最初は多肉を見に行くためじゃなくて、親戚から「おいしいフルーツティーがあるから飲んできなよ!」と言われて訪れた先で、たまたま八ヶ岳倶楽部という森の中にある美しいレストランとギャラリーに夫婦で訪れたのがきっかけです。ショップには多肉がすらりと並んでいて、妻がそこにあった多肉のリースが欲しいと言ってきて。最初は多肉のことも植物のことも全然詳しくなく、価値もわからなかった僕は「買わないよ!」と言いました。生きている植物を育てた経験もなかったので、すぐ枯らしてしまいそうで……。

ーーーはじめて出会った多肉は手に入れずに終わったのですね。
近藤:ただ、お会計を済まそうとレジに行った時に柳生真吾さんという方が書いた多肉の本が置いてあるのに気付きまして。真吾さんは八ヶ岳倶楽部を作った柳生博さんの息子さんで、そこの代表をしている方です。今で言う“自宅で気軽に楽しめる多肉や園芸ブーム”を広めた先駆者的存在です。その本の中を見たら、さっきのリースの作り方が書いてあって、じゃあ作品は買えないけれどこの本を買って自分で作ってみようか、そう思ったのがこの道に進んだ第一歩です。

ーーーまさかフルーツティーから多肉の世界へ進むとは! リースは実際作られたのですか?
近藤:次の日には作り始めていました。東京に戻り、まずは近場のホームセンターなどで多肉を掻き集めて……。まだ、その時は手頃に多肉が手に入らなかったので苦労して集めました。試行錯誤しながらも頑張ってなんとか形にして、リースを妻にプレゼントしたのです。そしたらすごく喜んでくれて! 妻は自分の事業が立ち行かなくなって苦しんでいた時も支えてくれていた存在で、その彼女が植物でこんなに笑顔になってくれるのか、と感動しました。その笑顔が嬉しくて、その笑顔のために多肉を作ろう、そう思ったのです。それからは作ってはプレゼントする、というのを何度も繰り返し、いつの間にか家の周りが寄せ植えだらけになっていました。外にも置いていたので、近所の人も気になって声を掛けてくれるようになり、時には「この寄せ植えはどこで買えるの?」と聞いてくれる方もいたので、そういう人にも作ってあげるようになりました。

ーーー奥さんへのプレゼントから、他の方にまで近藤さんの作ったもので喜んでもらえるようになっていったのですね。
近藤:趣味で作っていたものだから、欲しいという人には、ついつい渡すようになっていきました。仕入れもその時は市販の多肉を買ってきて使ったりしていた時に、名前があれば市場で安く仕入れられるとわかり、屋号を「季色」という名前にして、やっと手頃な価格で材料を集められるようになりました(笑)。その年の日比谷ガーデニングショーというコンテストに出してみようかとなり、このときも、あくまで趣味の延長だったのですが、2年連続で入賞し周りの人から認めていただくようになりました。

生き方を変える出会い

ーーーまさか仕入れが安くなるという理由で屋号が決まるとは……。
近藤:コンテストに出るようになっても、この世界だけで生きていこうとはまだ思っていませんでした。それ以外にも野外フェスに参加するようにもなり、だんだんと出店する機会が増えたくさんの人に見てもらえようになりました。いくつかの出店を経て、2012年に参加したイベントで、八ヶ岳倶楽部で購入したあの本の作者、柳生真吾さんがイベントにいらしたのです。それも、自分のブースに立ち寄ってくれて。自分からしてみたら多肉の道へ引き込んでくれた方でもあるし、園芸の世界の神様のような存在でもあるし、まさかその方が自分の所に来てくださるなんて! と驚きました。そしたら、作品を見て褒めてくれたんですよ。帰り道は舞い上がるような気持ちで、これ以上ない幸せな瞬間でした。その後に真吾さんから連絡があり、八ヶ岳倶楽部でTOKIIROの作品を取り扱いたいと言われたんです。そこから真吾さんと直接関わらせていただき、亡くなる2015年までの3年間を密に過ごさせていただきました。

ーーー憧れだった方と出会い、そして一緒にお仕事ができるようになったのですね。とても幸せな時間ですね。
近藤:真吾さんは裏表なく、とても優しく、全てが尊敬できる方でした。2015年に亡くなったという連絡をもらった時は、その事実を受け入れられず整理が追いつきませんでした。ただただ真吾さんへの想いが溢れてしまって、フェイスブックで真吾さんへ宛てた手紙のように、いろいろなことを書いたんです。今までのお礼とか、「何がしたかったですか?」とか「僕が引き継げることはありますか?」とか。それを投稿したら、コメントの中で、あるコラムの写真が送られてきたんです。それは真吾さんが書いた連載のコラムの最後のもので、内容は多肉についてでした。「多肉って紅葉するのだけれど、葉が落ちることはない。なんでだろう?」そんなことが書いてありました。送ってくれた人は、真吾さんは最期にこれが知りたかったのではないでしょうか、と投げかけてきたのです。自分も知らないことだったので調べてみると、すぐ答えにたどり着きました。真吾さんが、多肉が落葉しないことを知らないはずがないんですよ。もしかしたら次のコラムで、実はこういう理由でね、と続いたかもしれません。ただ、このことがあって、多肉についてどんどん知るきっかけになっていたのです。これまでは、ただ楽しいから続けていた多肉だったのですが、葉っぱの中で今何が起きているのか、なんでこの形になったのか、と疑問が沸いて出てきました。扱っているのは植物なのですが「この子をいつまでも元気に育てるにはどうしたら良いだろう」、「そのためには土のことを知ろう」、「いやもっと微生物のことを知ろう」、「いやいや地球そのものを知ろう!」と想いの向く先がどんどん広がっていきました。最近では自分の多肉を選んでくれる方には、その多肉がどういう所で生まれ育ち、どうしていけば共存していけるかをアドバイスしています。

ーーー多肉に対する向き合い方を与えてくれたのですね。そうして今のTOKIIROさんへと繋がっていくのですね。
近藤:真吾さんとの出会いがあり、今では彼がキャスターをしていたNHK「趣味の園芸」の講師をさせていただいたり、海外で多肉を披露する機会を得られたりしています。

ーーー活動の幅がもっと広がっていったのですね。これからどんな活動をされていくのか、楽しみです。本日はありがとうございました。

《インタビューを終えて》
園芸や植物と聞くと、大人しいイメージがついて回りますが、TOKIIRO・近藤さんのお話を聞いていくと、表面上だけではわからない、もっと深くにある生命そのものを知りたい、そんな探求心が成せる世界なのだと感じられました。はじめは自分ひとりきりで生きていた近藤さんが、人生に行き詰まった時に気がついた、人との関わり。誰かのために何かをしたいと思う、それまでの価値観をガラリと変える出会いを経て、今のTOKIIROさんがあるのです。もみじ市では、近藤さんの追い求める“命”とは何か、そんなことをTOKIIRO作品から感じ取っていただきたいです。

(手紙社 上野 樹)