出店者紹介,ジャンル:CRAFT

nuri candle

【nuri candleプロフィール】
福岡出身のキャンドル作家・nuri candleのnuriさんこと福間乃梨子さん。岐阜で修行し、京都での作家活動を経て、現在は地元福岡のアトリエで制作中。キャンドルに込められているのは自然から受けたインスピレーション。そして、nuri candleといえばアロマキャンドル。nuriさんの手によってブレンドされたアロマの香りにも、心がほぐされていきます。年々進化する動植物のモチーフと手彩色による豊かな色彩。使うのがもったいない! という気持ちを振り切って火を灯してみると、一瞬時間が止まったような感覚に陥ります。空間をじんわりと支配するアロマキャンドルに、あなたも全身の感覚を預けてみてください。
http://nuricandle.com/

【商品カタログ予習張】

【nuri candleの年表・YEARS】

【nuri candle・福間乃梨子さんインタビュー】
“nuriさん”の愛称で親しまれながらも、今や押しも押されもせぬ人気キャンドル作家として日々制作を続けているnuri candleこと福間乃梨子さん。キャンドル作家への道は一筋縄でいくものではありませんでした。日本各地に残るnuriさんの足跡を垣間見てみましょう。

キャンドルとの出会い

ーーー生まれ育った福岡に戻って5年目になったかと思います。制作環境としては落ち着いていますか?
福間:海辺の朝日と松の木からの生気を浴びながら充実してますよ。以前の環境に比べると、気負いのようなものも少なくなってきた気がします。海が近いっていうのが何より嬉しいですね。毎日が夏休みのような気持ち。

代表作のひとつ『ことり/bird』

ーーー修行時代以降は岐阜、京都と海から遠い場所が続いていましたね。福岡の学生が、岐阜でキャンドル修行をすることになった経緯が気になります。大学はデザイン科ということですが、子どもの頃からデザインとかアート関係に興味があったんですか?
福間:それほどでもありませんでした。部活も運動部で、中学はテニス、高校はハンドボールをやっていましたし。どうしてデザイン科に行きたくなったかというと、当時渋谷系が流行っていて私も例に漏れず興味を持ったんです。中でも特にCDのジャケットのセンスが好きで、そういうグラフィックデザインに憧れていました。それでデザイン科を目指すようになって、美大受験用の画塾に通いました。

ーーーセンスの良いレコードとかCDのジャケットって、刺激されるものがありますよね。それほど魅力を感じていたデザインの世界、いかがでしたか?
福間:最初は意気揚々と学んでいたんですけど、当時はちょうどイラレ(Adobe Illustrator)が普及し始めていました。パソコンの前でデザイン作業していて、世の中に出ては消えていくデザインを目の当たりにしているうちに「デザインは日々消費されていく!」と思うようになってしまったんです。極端なんですけど、それで「手仕事がいい、手仕事したい」と考えるようになりました。

ーーー“作り出す”実感を求めていたんでしょうか。そこからなかなかキャンドルには行かないですよね。
福間:ものを作るっていろんなものがあるますしね。きっかけは学園祭で、蝋を扱ったんですよ。そしたら、不思議と実感があったんです。何かを作っているっていう。それから見よう見まねで自分で蝋を溶かしてオリジナルのキャンドルを作り始めました。

ーーータイミングってあるものですね。それからは自分で作っているだけでは満足行かなかったということですね。
福間:あの頃はまだキャンドル作家と呼べる人自体が少なくて、それこそCandle JUNEさんが知られ始めたくらいな時代で。教本もなければ、ましてや福岡にキャンドル教室なんて無かったので、色を着けて固めるぐらいなことはできても、ちゃんとしたキャンドルを作る基礎がわからなかったんです。なので、ちゃんとキャンドル作りを学びたいと思って、キャンドル界の大御所・横島憲夫さんに手紙で弟子入りを志願したんです。

ーーー大御所に行くところがすごいですね!
福間:それもやっぱり、本で知ることができるのはそういう方だけだったということですね。思いが叶って、卒業後に横島さんのところでお世話になることになりました。

修行時代は耐える日々

ーーー修行先ができて、すぐに岐阜に行ったというわけではなかったんですね。
福間:師匠が開いていた教室の本部が東京の原宿にあったんです。まずはそこで教室に入って、制作のアルバイトというかたちでスタートしました。

ーーー初めての上京で原宿、刺激が強そうですね。
福間:ちょうど父が東京に単身赴任してたので、生活は安心できました。刺激が強かったのも確かで、キャンドルの修行を目指していたにも関わらず、東京のデザイン事務所の就職試験も受けたりしてたんです(笑)。しかも受かってしまって。同じタイミングで師匠から、岐阜に新しい拠点を作るからアシスタントにならないか、と誘いを受けて。デザイン事務所を勧めてくれる友達もいましたけど、最終的には岐阜で修行する道を選びました。

ーーーいよいよ本格的にキャンドル修行。暗黒の時代、というのがなかなか想像できないのですが。
福間:今思えば、物理的な環境が悪かったのと、師匠の考えを誤解していた部分もあったと思います。岐阜で任されたのが、キャンドルの材料とか、生徒の作った作品を売るお店の店番でした。そこは芸術家のアトリエとかが集まるビルで、教室もあったんです。バリバリ修行するつもりでいたものの、師匠はほとんど東京にいることが多く、1人で店番の日々でした。キャンドルのことが何もわからないから、お店で売っているものについて聞かれても全然答えられず、売上もなかなか立たない。そんな状況で店番と、ひたすら掃除や小間使いのようなことをして、直接技術を教えてもらえることはほとんどありませんでした。さらに「まだ中身が伴っていない」と、1年間キャンドルを作ることが禁止されてしまったんです。

ーーーなかなか厳しいですね! 「技は盗め」というタイプだった、と。物理的な環境が悪かったとは?
福間:お店は窓がなくて、薄明かりでキャンドルを灯しているような環境だったんですね。おまけに当時住んでいた部屋が、お墓と救急病院に挟まれていて(笑)。それはちょっと気持ちがやられると鬱々としてしまいますよね。“何者でもない私”という焦りも強くありました。

ーーーそこを耐えて、キャンドル作りを覚えていったんですね。
福間:“1年間作るな令”が出てからは、師匠がいない間に自分で自分のお店から材料を購入して、他の人のキャンドルを研究して、自分なりに試行錯誤してみていました。なんでこんなに酷い扱いをされるんだろうと思いながら暗澹たる気持ちでいたんですけど、ある時から「こんなことではだめだ」と気持ちを切り替えて、自分の行動を変えたんです。それは、師匠に言われてから動くのではなく、言われる前に動く。考えて自分から行動する、ということでした。そうするうちに師匠の態度も変わって、教室の作品展をする際に「キャンドル作ってみる?」と、キャンドル作りも解禁されました。

ーーー自分が変わることって大切なんですね。人を変えるにはまず自分からとはよく言ったものです。
福間:結局、あまりキャンドル制作については直接教わらず仕舞いだったんですが、師匠には道具の扱い方や取り組む姿勢など、ものづくりの基礎を教わりました。2年後に岐阜のお店を閉めることになって、もう1か所の拠点だった富良野のお店に誘われたんですが、そのタイミングで師匠の元を離れることにしました。キャンドル作家として独り立ちしたい思いと、どうしようかなという思いの狭間で1年間くらいアルバイトをしながらフラフラしていたところ、ちょうど両親が転勤で京都に引っ越すというタイミングがあって、私も京都へ行ってキャンドル制作をしていくことにしました。

京都からもみじ市へ

ーーー京都で本格的にキャンドル作家への道を歩み始めることになりましたが、どんな時代だったんでしょう?
福間:技術的には自分のかたちを作るために試行錯誤の日々でしたね。シリコン型を使えていない頃だったので、原色のキャンドルとかドットの模様を付けてみたりとか。古いキャンドルを叩いて割ったらまるで鉱物みたいな輝きがあって、それが鉱物キャンドルの原点となったんですけど、実は活動初期の頃のことでした。最初はアルバイトをしながら細々とキャンドルを売っていましたね。お寺でやっている手作り市に出たり。そのうちに、人の元で働くのをやめて、キャンドル作家一本で行こうと、安いアパートを工房にして本格的にキャンドル作家生活が始まりました。

初期のキャンドル
代表作のひとつ鉱物キャンドルは『鉱物キャンドルのつくりかた』として書籍にもなりました

ーーー徐々にnuriさんの原型ができていったんですね。そして運命の2010年を迎えます。
福間:春頃に恵文社さんのギャラリーを借りて展示をしていたんです。そしたら芳名帳に「北島勲」と、私が憧れていた手紙社の、それも代表の名前が書いてあるじゃないですか! しかも「とっても素敵です」というコメントまで。嬉しかったですねぇ。しばらくして、その年のもみじ市に誘ってくださるメールが来て、北島さん曰く「5分後に返信が来た」というほど、速攻で出店表明のお返事をしていました。

ーーー憧れの舞台に立てるというのは、作家として身を立てる上でこれほど力になるものはないということですか。
福間:出られることも大きかったんですけど、何よりその場自体が本当に素晴らしくて。これまで出ていた市とは規模が全然違うのと、事務局スタッフはもとよりボランティアスタッフさんに至るまで、初めて出る私に対してもとても良く接してくれて、助けてくれて感動しました。それから、私の中のものづくりのスターたちが大集結してることに興奮して。最終日の打ち上げには行かない選択肢は無かったですね。北島さんはじめ創始者たちの私たちに対する熱い思い、出店者のみなさんの純粋なものづくりに対する熱い思い、それらが渦巻いていて。王国でした。ものづくりの王国。この世界で生きていくことを信じても良いんだな、と思えた瞬間でした。

作品の変化、生き方の変化

ーーー2010年を経て、年々充実した作家活動を送っているように見えます。
福間:書籍も何冊か出させていただいたり、知ってくださる方も多くなって、独り立ちできた感はありますね。

ーーー2013年の作風の変化は、何か意識するところがあったのですか?
福間:マーケットに乗り始めたことで、流行りを気にするようになっていたんですね。雑誌をチェックするとか。型があって、流し込んで、量産……。ハッとしました。「売れるためにひたすら作るのって、デザインの時に感じた“消費”と一緒だ!」と気が付いたんです。それで、1個1個ちゃんと作品としてキャンドルを作りたいと思うようになりました。最初の頃はキャンドルを使って、数とか色で空間を作る、インスタレーション的なことがやりたい気持ちが強かったんですが、ここにきて、1つのキャンドルの中に物語を持たせたいと思うようになったというのもあります。

ーーーそこでアロマキャンドルも登場するわけですね。
福間:何かの本で「精油は瓶の中でまだ生きている」という言葉を目にして、「はぁぁ! すごいな!」って思ったのがきっかけですね。生きているもの、つまり命がキャンドルに宿るっていうことですよね。アロマのもたらす力も調べるとたくさん出てきて、「これは人にとって良い効能がある、薬みたいなキャンドルが作れるのでは? それなら作りたい」となりました。ちなみに精油と同じで、キャンドルは作っていると私の気持ちも蝋の中に溶け込んでいく気がするんですよね。だから、変なものが入らないように気をつけて作っています。たまに海外ドラマとか見ながら作ってしまって「これはいけない」なんて反省することも(笑)。

ーーー絵柄もどんどん進化していっている気がします。
福間:キャンドルに絵付けをするようになって、石膏型を用いるようになってから表現が広がりました。石膏型で模様をつける方法、キャンドルに応用している人はあまりいないんじゃないでしょうか。最初は細い線が彫れなくて、買ってくれた方に申し訳ない気持ちが少しありましたけど、今はだいぶ繊細な表現ができるようになりました。

石膏型で凹凸をつけて絵付けをしたキャンドル

ーーー作品に対する考え方とリンクするように福岡に戻るタイミングがやって来たんですね。
福間:ちょうど兄の持ち家が空いて、そこをアトリエ兼住居として使えることになったので。15年近く海から遠い場所にいたから、リハビリですよね。開放的な気持ちでいられます。「作りたいものだけ作る」と決めたことも合間って、今は気持ちが自由で充実しています。

ーーーそして、今年は結婚後初のもみじ市となりますね!
福間:主人はずっと北海道、今は中標津に赴任しているので、遠距離での生活が続いています。でも、北海道は大好きな場所のひとつで、色々なイメージをもらえる場所なので時々行くと力が湧いてきます。今年の夏は1か月のんびりと道東で過ごしました。新作にはアイヌ語で野原という意味の『ヌプ』、それからクマをモチーフにした作品もできました。もみじ市は、今でも特別で、もみじ市のためのキャンドルを作り始める瞬間からもうもみじ市で、その瞬間からもう楽しいんです! 河川敷晴れるといいな。みなさんに会えるのを楽しみにしています。

北海道から生まれた新作『ヌプ』

《インタビューを終えて》
公私ともに充実の時を迎えているnuriさん。その縁の下には苦しい修行時代がありました。もみじ市を転機としてくださっていることが嬉しくもあり、これからのもみじ市も、これからの作り手たちのために“王国”であり続けなければという使命感にも駆られる、身が引き締まる思いも抱きます。1個1個に物語と気持ちを込めたnuriさんのキャンドル。手にすることができたあなたは間違いなく幸せです。

(手紙社 小池伊欧里)