もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

羽鳥景子

【羽鳥景子プロフィール】
短大で油画を専攻しながらガラス工芸を学び、京都でバーナーワークによる耐熱ガラスの技法を習得。現在は仕事としてのガラス製品・パーツ制作と、アート作品の制作を並行しつつ、耐熱ガラスでの表現の可能性を探っています。阿佐ヶ谷のアトリエではマスコット猫の“まるちゃん”が、日々羽鳥さんに影響を与えているようです。代表作「アートポット」には一目で心を掴まれました。高い技術とセンスを持ち合わせたアーティスト。作品に負けずご本人もとっても素敵。もみじ市のブースで話しかけてみましょう!
Instagram:@hatori_glass

【羽鳥景子の年表・YEARS】

【羽鳥景子さんインタビュー】
作品の可愛らしさとは裏腹にタフな作業を要するバーナーワーク。なぜ、このガラス製方に魅了されて今まで作品を作り続けているのか。以前から、その経歴のユニークさも気になっていた担当・小池が、羽鳥さんと耐熱ガラスとの出会いの物語を聞きました。

初めてのもみじ市は楽しくて仕方なかった

ーーー去年のもみじ市後に長年メインで制作されてた浅草の工房を出て、今年に入って荻窪の方に移転されたんですよね? ご自宅兼アトリエとの併用、順調ですか?
羽鳥:10年以上使っていた場所が急に建物自体を取り壊すことになり、かなり慌ただしく新しい場所を探して引っ越しして、やっと稼働し始めました。今度の工房は陶芸家さんとのシェアなので、面白いですよ。

羽鳥さんの代表作ともいえる『アートポット』

ーーー羽鳥さんの作業スペースにはガラス用のガスバーナー、奥に陶芸用の窯が並んでいて、外から見るとまさかこんな場所が、という不思議な所でした。
羽鳥:道路に面した1階ですしね。陶芸家さんとは作業時間帯が微妙にずれているので、良い感じでシェアできています。以前とスタイルを変えて、新しい荻窪の工房ではいわゆる“作品”制作、自宅の方では主にプロダクト系の受注仕事をするようにできればと思っています。

ーーー(アート寄りの)作品制作の場所を完全に分けるという考えは以前から持っていたんですか?
羽鳥:もともと私の師匠の教えが、「プロダクト(製造)と作家(制作)の仕事は半分半分で同時にバランス良くこなす」だったんです。それを実践するのには丁度良いですね。それから、昨年もみじ市に初めて出店したことも大きいです。作品制作について、今まで以上に意識するというか、意欲が増しました。私にとっては去年のもみじ市もひとつの転機です!

ーーーそれは嬉しいです! それまでされていた展示などとは違っていましたか?
羽鳥:出店していて2日間とにかく楽しかったです。お客さんの熱量が全然違いました。作家としての作品を本当に熱心に見てくれて、それでいてギャラリーでの展示とは違ってそこまで敷居が高くないので、集まってくれる方がカジュアルというか。積極的に興味をもって話しかけてくださいますし、お客さん同士のつながりのようなものも見えました。いつも1人で作業することが多いので、お客さんと直接対面して交流できるというのはとてもインパクトがありました。半分半分のバランスと言いましたが、作家活動への意欲が強くなってしまうほど(笑)。お客さんだけでなく、他の好きな出店者さんとの触れ合いも刺激になります。見習うところもたくさんありました。

アートポットの中に入れるオブジェ

油絵からガラスへ

ーーーでは、年表を見ていきたいと思いますが、最初は油画を専攻されていたんですね。いつ頃から美術の道に進もうと考えていたんですか?
羽鳥:昔から絵画教室に通っていて、絵を描くのは好きだったんですよね。でも、大学受験の時は「手に職」と考えて栄養士さんになれるようなところばかり受験していました。それでも、高校の頃に通っていた絵画教室の画家の先生の画風が自由で楽しくて、その世界が面白そうだったので1つだけ美術系の学部を受験しました。受かったのでそこに通うことにしたんです。

ーーー栄養士と美術、だいぶ違いますね。でもやはりアートの世界に惹きつけられるものがあったんですね。
羽鳥:今思えば、小さい頃は空ばっかり見ている変わった子だったんです。学校の登下校中にガラスとか気になる素材を拾って集めていたり。アートの世界は自由に自分の気持ちを表現できるので、合っていたんだと思います。

ーーー特に油絵を選んだのはどうしてですか?
羽鳥:染織、織り、デザイン、彫刻などがあったんですが、絵画教室の先生の影響もあって、一番自由な気風を感じたんです。油絵を専攻してからは、ひたすら裸婦を描いていました。そうすると飽きてしまって、自分で色々と他のことを試している中で、ある時板ガラスに絵を描いてみたんです。そうしたら波長が合って「ガラスだ!」と直感しました。

ーーーそこから羽鳥さんとガラスとの関係が始まるんですね。

今の自分を決定づけた京都時代

ーーーまずは短大に行きながらガラスを学んだ。
羽鳥:当時は今ほどガラスを学べたり体験できたりする場所がなくて、唯一と言っても良い学校で、川崎市の元住吉にあった東京ガラス工芸研究所の講習を受講しました(現在は東京都大田区に移転されているようです)。ベネチアガラスに憧れがあったので、そんな作品ができるようになりたいな、と。そこで吹きガラスでの制作を重ねていきました。ただ、それは2人組での共同作業なんです。私は京都から来ていた学生の男の子とペアだったんですけど、互いのモチベーションの差が大きくてやり辛かった(笑)。その子はもっと高度なガラス制作を求めていたようで、初心者で何をするにも新鮮でどんどん作業していきたい私とは立ち位置が違いました。そのもどかしさから「共同作業は向いてないな」と心が折れ、1人でできるガラス制作の道を探すことにしたんです。

ーーーガラス工房って複数の職人さんが共同作業しているイメージがありました。一方で1人で制作しているガラス作家さんもいますし、ガラス制作も幅広いですよね。
羽鳥:そう、色んなやり方があると知って、今につながっています。ある時、パート・ド・ヴェールの講習で一緒だった京都の友人から電話がきて、「1人で吹きガラスが作れる教室があるから」と誘ってもらったんです。1人でできるガラス作りと聞いて、意を決して京都で修行することにしました。そこで生涯の師匠に出会うんです。

ーーーその1本の電話が、羽鳥さんの人生を新たに照らすことになったんですね!
羽鳥:考えてみればそうですね。実際に行くと、聞いていた話と少し違っていて、予想もしていなかった“耐熱ガラス”の工房だったんですけどね(笑)。そこには東京で吹きガラスのペアを組んでいたあの男子学生もいてびっくりしました。なるほど……と妙に納得したのを憶えています。師匠は耐熱ガラスの可能性、作業の効率性などを熱心に語り、その場で大きなゴブレットを魔法のようにスルスル〜っと作り上げたんです(感動というより驚きでした!)。

ーーー「衣・食・住の大切さを学んだ」とありますが。
羽鳥:この京都修行で初めて親元を離れたんですよ。京都と言っても、京都市中心部まで30分くらいかかる久世郡久御山町というところで、なかなかの郊外でした。師匠は前述のように「製造と制作を半々で」と仕事についての考え方を示してくれる一方で、私の生活についてもきっちり指導してくれる方でした。食事は一緒にとり、お金の用途も制限されて、工房で働かせてもらうまでの期間、社会を知るためにアルバイト先も決めてきて丁稚のように出されました(笑)。自分の力で生活することで、衣食住を充実させることの大切さとか、実家のありがたみを感じましたね。

ーーーアルバイトしてる時間は師匠の仕事を見ることができないわけですよね?
羽鳥:そうなんです。それぞれ働いている時間帯は一緒なので。だから、アルバイトから戻って、師匠と仕事をしている先輩に「今日はこれをこうやった」とか直接教えてもらって。先輩たちは、ほぼ女性でした。石川県から来ていたり、京都の西陣の人だったり。西陣の先輩には京都の良さをたくさん教えてもらいました。京都の修行時代は本当に素敵な人たちとの出会いとつながりばかりで、大切な場所です。今でも用事がなくても年に1度は京都に行っています。修行の途中で師匠は亡くなってしまうんですけど、奥さんとは京都に行くたびにお会いしていますよ。師匠から直接技術を学ぶ期間は短かったかもしれませんが、見せてもらった技術の記憶を頼りに自分で試行錯誤して作家の道を歩み始めました。師匠にはガラス作家として生きていくための支柱を授けてもらえたと思っています。人生におけるキーパーソンがたくさんいて、初心に戻れる場所が京都なんです。

東京での活動スタート

ーーー師匠が亡くなって、ある程度先輩から技術も継承して、独立となるわけですね。最初はやはりなかなか落ち着かないですよね。
羽鳥:そうですね。特にガラスのバーナーワークは、いかつい酸素ボンベとガスボンベの設置が必要だったり、なかなか都心では工房として貸してくれる物件がないんです。レンタル工房も馬鹿にならない金額ですし。この時も、京都での人脈に助けられました。師匠が病床の頃、工房を閉めることになり、その場所を活用してくれる人を探していたところ、当時大阪でトンボ玉の教室を展開していた社長さんと知り合いました。その方から、東京にお店を作るから手伝って欲しいとか、ガラス工芸教室の講師をしないかというお話をいただいて、東京に作業場所が確保できたんです。都内で講師をしながら他の耐熱ガラス工場の仕事を受け持ったりして、フリーランス的に作家活動を始められました。

ーーーご縁ですね。一般的なガラスよりも比較的作り手が少ない耐熱ガラスの技術を持っていたことも大きかったのでは?
羽鳥:それはあるかもしれません。埼玉県の所沢にある教室で教え始めたのもその頃で、15年以上経った今でも教えに行っていますが、バーナーブローを学べる教室はまだ少ないです。東京に戻ってからも、まだ学びたいと思って参加したのが新島国際ガラスアートフェスティバルです。海外から講師を招き、7日間のワークショップを行います。その時にスカラーシップを頂きアメリカのピルチャックガラススクールで学ぶこともできました。その後も数年にわたりスタッフとして関わらせていただきましたが、それぞれの個性を持った講師から学ぶことは多かったです。

ーーーその後、2008年から昨年まで、浅草の工房で10年腰を据えられたんですね。
羽鳥:浅草の工房も、仕事でお世話になった人たちの繋がりから見つけることができました。それからはとにかくがむしゃらに仕事や作品制作に打ち込みました。

アートポットの蓋

生活をちょっと変えてみる

ーーー工房が移転した昨年から今年にかけてはまた、大きな変化の中にいそうですね。
羽鳥:結婚して8年東京の神楽坂に住んでいて、4年前に、今の阿佐ヶ谷のアトリエ兼住居に引っ越ししたんですが、ちょうど年齢的にも身体の変わり目のようなタイミングで。少し日常生活に目を向けてみようと思ったんですよね、京都での修行時代以来(笑)。ちょっとゆっくりしてみようかと。そういう流れもあって、新しい工房は作品制作専用の場にして、自由に作品を生んでいきたいなと思いました。

ーーー(愛猫の)まるちゃんの存在も大きい?
羽鳥:やってきたのが2018年の正月だから、まだ2年も経っていないんですけど、すっかり私のライフスタイルも変わりました! こんなに可愛い子なかなかいないでしょう(笑)。たくさん元気をもらっていますが、気力を吸い取られるというか、どんどん骨抜きにされています。

ーーーもみじ市に向けては準備万端ですか?
羽鳥:初出店を経て、ブースの作り方とか、どんなものにお客さんが興味を示すのかとか、色々と知ることができました。それほど数を用意できるわけではありませんが、去年よりも多くの方々に喜んでもらえたら嬉しいです。

《インタビューを終えて》
Hatori Glassの原点は京都にありました。師匠の教えの中から、ふたたび生活に目を向け始めた現在は、羽鳥さんの新しい“YEARS”の序章なのかもしれません。裏側のハードな作業を感じさせない爽やかな作品と、ご本人。お会いするとすぐに緊張が解きほぐされて羽鳥ワールドに癒されます。その、スルッと壁を取り払ってしまうようなキャラクターが、節目節目で羽鳥さんの人生に追い風を吹かせているような気がしました。

(手紙社 小池伊欧里)

【もみじ市当日の、羽鳥景子さんのブースイメージはこちら!】