もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:ILLUST&DESIGN

岡崎直哉

【岡崎直哉プロフィール】
写真家・岡崎直哉さんとは、2014年秋、手紙社に入社する2年前に遊びに行ったもみじ市で出逢った。当時、写真が趣味のただの大学生だった私にとって、それはそれは鮮烈な出逢いだった。テーブルに規則正しく並べられたポストカード。そこに写るのは、私の目では見つけることのできなかった世界。被写体の見つけ方、切り取り方。岡崎直哉の世界観は何をとっても新鮮で、今も私の心を掴んで離さない。
http://www.color-travel-guide.com/


【岡崎直哉の年表・YEARS】


【岡崎直哉さんインタビュー】
デザイナーで写真家の岡崎直哉さんのデザイナー人生は、幼少期より始まっていた。無意識のうちにデザインやアートに触れて育った少年時代、本格的にデザインを学んだ高校・専門学校時代、デザイナーとして働き出した20代前半、写真に興味を持った20代半ば、写真家としての活動をスタートした30代。岡崎さんの人生には、常に“デザイン”が欠かせなかった。

デザイナー・岡崎直哉少年の誕生

ーーー子供のころの夢は画家だったんですね! どんな少年だったんですか?
岡崎:小さい頃から絵を描くのが好きで、幼稚園時代は電車や恐竜の図鑑を見て、模写していました。小学校低学年の時は、学校から帰ったら画板を持ってスケッチに出かけるような子供でした。なかでも小学4年くらいの時の授業で、新聞を作る授業があったんです。学校で起きたこととかをグループごとにまとめて新聞を作るんですけど、その授業が大好きで……。「自分でも作りたい!」と思い、当時ハマっていた“ガンダム新聞”というものを自作して、近所の電信柱に貼り歩いていました(笑)。見てもらいたかったんでしょうね。

ーーー(笑)。すでに作家として開花していますね。
岡崎:今思えば、絵と写真の構図を決めることは似ているので、少しは役に立っているのかなと。それと自作の新聞は、自分で雑誌を切り抜いて、レイアウトして、文章を書いて……デザインしているのと同じことですよね。

ーーー中高生になっても画家になりたいと思っていたんですか?
岡崎:いえ、中学の時は漫画家になりたかった。スポーツ漫画やギャグ漫画を描いていました。今思えば考えられないんですが、少年ジャンプの漫画がカラー印刷じゃないことに疑問を持っていて、全漫画に色を塗ったりしていましたね(笑)。あとは、当時流行っていた『北斗の拳』や『キン肉マン』などの漫画を切り抜いて、コラージュ漫画を作っていました。ストーリーがうまく繋がるように色んな漫画を組み合わせて、新しい漫画を作るんです。

ーーーそれはすごいですね。非凡な才能を持った少年だったんですね。
岡崎:でも高校生になった時に、漫画家は断念しました。それから建築の道へ。高校時代は建築について学んでいました。椅子などをデザインしたかったんです。⾼校の卒業制作で作った図面をまとめる時に、名前とタイトルだけが⼊った表紙の⼈が多かったのですが、なぜか僕は表紙をグラフィックっぽく作りました。その時、⾃分がやりたいことは“こっち”なのではないか? と思い、デザインの専⾨学校に⾏きました。

グラフィックデザイナーとしての道

ーーー専門学校を卒業後、デザイン会社に入社したんですよね? そこではどんなデザインを?
岡崎:元々レコードが好きで、レコードのジャケットデザインをしたかったんですが、その時代にはCDに変わっていて、CDジャケットを制作するデザイン事務所に入りました。そこで写真に興味を持つきっかけとなったカメラマンさんと出会います。

ーーーその方はどんな方なんですか?
岡崎:野村浩司さんという方で、当時、渋谷系(ピチカート・ファイヴ、コーネリアス等)のアーティストのジャケットをよく撮影していた方なんですけど、その方の写真が好きで、「一緒に仕事したい!」と思っていたんです。運良くご一緒できる機会があって……。今は、写真などはデータ納品かと思いますが、当時は現物納品だったんです。なので、野村さんのスタジオに写真を受け取りに行く機会が何度かあったんですけど、直接もらいに行った時、まだ写真が焼き上がってないことがあって。そんな時に「ちょっと待ってて」とコーヒーを入れてくれて、それを僕が飲んでいる間にプリントしてくれるんです。スタジオがあって、暗室があって、PVなどを見るスクリーンもあって……。その空間が心地よくて、憧れたんですよね。

ーーー第2の転機として「1997年に退職して、自分のスタイルを模索する」とありますが、どんなことをされていたんですか?
岡崎:事務所で働いていた時は、クライアントに依頼されてデザインするという形だったので、自分のカラーがないと感じていました。なので、名刺として使えるような独自のものを作りたいと思い……。今でも“日本”を題材にした作品を作ることが多いですが、この頃から“日本”をテーマにした作品を作りたいと思い始めました。最初の頃は、「外国人から見た日本」をテーマに作品を作っていました。年表にも載っている版画風のデザインは、イラストを描いてデザインして、プリントも自分で行なっていました。

ーーー外国人から見た日本……。斬新ですね!
岡崎:他にも自分で撮った写真を使って勝手に金閣寺のパンフレットとかを作っていました(笑)。今でこそおしゃれなパンフレットがある施設もありますが、当時は全然なくて……。それに疑問を感じていました。パンフレットに限らず、日本のものは“親切”を前面に出すことで、逆に要素が多くなってわかりづらくなってしまっている印象を受けます。海外に行くと、デザインを重視したものが多く、とてもシンプルでわかりやすいんですよね。

ーーー“日本”を題材にしたもの以外もデザインされていたんですか?
岡崎:当時、オリジナルの書体を作る、というのがデザイナーの間で流行っていて、僕もオリジナルフォントを作っていました。今でこそ日本語にも色々なフォントがありますが、昔はなかったんですよ。なので、おしゃれなフォントを作るのが流行ってたんです。あとは、電話を受けたときに無意識にメモ帳に描いていた落書きをトレースして、色を塗ったものを作っていました。

写真家・岡崎直哉の一歩

ーーー写真に本腰をいれたのはいつからですか?
岡崎:デザインを作りながら写真は撮っていたんですが、趣味という感じで。それまで使っていた35mmフィルムのカメラから、ブローニーのカメラに買い換えたことが大きかったかもしれません。あとは、フィルムカメラで撮影した写真を現像に出して、焼きあがってきた写真を見たときに、自分の好みの色味ではなくて……。写真屋さんって中間色でプリントしてくれるので、自分の思い通りの色にはならないんですよね。自分の好きな色味でプリントしたいと思うようになり、暗室で焼くようになりました。

ーーーそうだったんですね。2010年に台湾で自身初の展示をするんですよね? 初展示がなぜ台湾なんですか?
岡崎:当時、『カメラ日和』という雑誌に何度か掲載していただいていて、それを見た写真家やアーティストなどのマネジメントしている会社の方にお声をかけていただいたんです。いつかは展示をしたいと思っていましたが、こんなにすぐお声がかかるとは思っていませんでした。

ーーー初展示はどうでしたか?
岡崎:日本から写真家が来るということで、たくさんのお客様が見えました。作家自ら作品について説明する時間があったんですが、みなさん勉強熱心で、どういう風に写真を撮っているかなどが気になるみたいでした。その後、このグループ展は、台北を経て台南、香港、シンガポールを巡回しました。昔はアートといえばヨーロッパでしたが、今はアジアの方が、アート作品を買ってくれる方が多いんです。

ーーー当時からあまり作風が変わらないですね。
岡崎:そうですね。活動当初からあまり作風は変わっていません。この写真展で初めて「旅する封筒」を作りました。

ーーー日本での写真展は?
岡崎:日本ではほとんどしていませんでした。2018年にスパイラルで展示をして、先日まで山梨にある「FUJIHIMURO」というギャラリーで写真展を行いました。あえて日本を選んでいないわけではなく、機会があればこれからも写真展を開きたいと思っています。

ーーー今後はどのような活動をしていきたいですか?
岡崎:国内外旅行に行き、写真を撮ることが多いのですが、そのスタイルは変わらずに続けていきたいです。次は北欧に行ってみたいです。あとは、いつか写真集を作ってみたいと思っています。

《インタビューを終えて》
幼少期からアートと隣り合わせで育った岡崎さんの頭の中は、私たちでは計り知れないほどの独創的なアイディアに溢れていた。同じ道を歩いていても、他の人が気がつくことのないことに着目し、追求する。そういう力が大切だ、と改めて感じた瞬間であった。もみじ市に出店して、今年で10回目。写真家として歩み始めた年からスタートした、もみじ市との“YEARS”を、今年はどのように刻むのか、今から楽しみだ。

(手紙社 鈴木麻葉)