もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

charan 山田亜衣(出品のみ)

【charan 山田亜衣プロフィール】
東京生まれ。2000年より、charan(ちゃらん)という屋号で銅・真鍮雑貨と真鍮アクセサリーの製作を開始。「charan」とは、山田さんご自身が作った「茶欒」という造語からきており、自分が作った作品を部屋に飾ることで、“ひとりでお茶を飲む時間や、お茶の間で団欒するようなあたたかい空間を作りたい”という想いが込められているのだそう。その由来の通り、山田さんの生み出す作品は金属でありながら、その表情のゆらめきから体温のようなあたたかさを感じます。絵本のワンシーンを切り取ったかのような、乙女心をくすぐる世界観も魅力のひとつ。ぜひ、作品を通して山田さんの紡ぐ物語にふれてください。
http://charan-ai.cocolog-nifty.com


【charan 山田亜衣の年表・YEARS】

【山田亜衣さんインタビュー】
第1回のもみじ市から出店してくださっているcharan 山田亜衣さん。河川敷で山田さんのカラッと輝く太陽のような笑顔に迎えられると、「ああ、もみじ市だな」という実感がわく人も多いはず。今回山田さんの年表を追いながら、仕事として作品を販売するということにおける、転機・原点にグッとフォーカスを当ててお話を伺いました。山田さんの当時の思いや頭の中を一緒に辿ってみましょう。

揺るがない“将来の夢”

ーーーまず、もの作りへの興味はどのようにして生まれたのでしょうか。
山田:指物師という伝統工芸(木工)の職人の家系で、父はその3代目。生まれた時から家にあるものは手作りでできているものがほとんど、という環境で育ちました。祖父が作ったちゃぶ台に、父が作った和家具、月や星形のクッションなど布ものも母の手作り、みたいな家だったので、その影響が大きいです。

ーーー日常的に手作りのものが身の回りにあって、当たり前のように使って暮らして、という生活だったのですね。素敵ですし憧れます! 小学1年生にしてすでに会社員にはなれないと思ったのはなぜでしょうか?
山田:子供の頃から何をするのも遅くて、「みんなと一緒に、同じペースで」というのが苦手だったので、向いていないなと。あと、絵を描く時間とかもの作りや図工の授業でも、いつも先生に直されていて、自分では好きでも得意ではなかったんです。

ーーーそうなんですか? なんだか意外です。
山田:昔から地味と言われがちなものが好きで、絵を描く時も絵の具の全部の色にグレーを混ぜたり、色を塗った後に濡らした布で叩いてにじませたりしていました。そうしたら、先生に直されたりして。子供らしい色使いとか、先生がOKを出すようなものが作れなかったんですよね。幼稚園時代にも、先生の似顔絵を描いたことがあったんですが、可愛くて若い先生だったので、想像でリボンをつけたら、「そんなものつけていないから描き直しなさい」って言われたりして。結局いつもクラスで1番最後までやっていて、好きなものですら苦手なんだなと思いました。

ーーーええっ、子供の頃にそんなことを言われて、心は折れなかったのでしょうか……?
山田:好きなものを諦めない自信はあったんです。仕事って、きっと何をやっても大変じゃないですか。でも「作ること」という好きなことなら、できるなと思ったんです。人一倍努力して目標を達成するタイプの一番いい例(父)も近くにいたので。

見てほしい、認めてほしい

ーーーもの作りを仕事に、という思いは変わらないまま、高校を卒業後、職業技術専門学校に入学されていますね。金属に決めたのはどうしてでしょうか?
山田:高校3年生の夏休みに行った学校見学で、真っ赤な鉄を打つ女性たちをみて、「楽しそう!」と思ったんです。卒業後、時間と共に変化する美しさに惹かれたのと、お客さんにも育ててもらいたくて、素材を銅・真鍮に決めました。

ーーー年表に、「25才までに個展をすると決意」とありますが、とてもしっかり作家としての人生プランを考えていらっしゃったのですね。
山田:いやいや。ちゃんと決めてやらないとダラダラしてしまう性格なんですよ。専門学校に通っていたのは半年間なのですが、学校の求人が男子ばかりなのと、そもそも半年という期間では基礎的なことを身につけたくらいで、実際はわからないことだらけでした。大学に通っていたら、就職とかのタイミングもおのずと決まってきますけど、私はそうではないし、同窓会に行ったりすると「まだそんなことやってるの?」とか言われたりもして、色々自分で決めなくてはいけないという思いや焦りが強かったんです。

ーーー「25才まで」と定めたのはどういう考えからでしょうか?
山田:大学に通っている同級生が社会人になって就職するのがだいたい22才として、それまでには私も素材を決め、そこから3年目くらいまでに個展ができるように、というイメージでした。

ーーーなるほど! まだまだ学生で遊んでいる人も多い年齢で、本当にすごいです。
山田:個展をしたからって食べていけるわけじゃないんですけどね(笑)。個展は節目というか、大小に関わらず個展をやっている、っていうとわかりやすいというか、「個展ができる作家なんだな」と、少し安心してもらえるじゃないですか。そういうのが欲しかったのかもしれません。

初個展の様子。目標としていた25才を目前にしたタイミングでの開催達成!

ーーー個展開催に向けて、どういったことをされておりましたか?
山田:これを仕事にしようと思っていていたわりに、まだまだ技術もついていってなかったし、当初は学び方すらよくわからなかったので、鍛冶屋でアルバイトをしたり、展示会や美術館、デパートで催事をしている職人さんのところに通って教えてもらったり、まずは技術を身につけようとしていました。でもやっぱりみんなと同じようにはできなくて、自分のやり方をずっと考えて模索していましたね。どういうものが売れるか考える余裕もなかったし、そもそもそういうことを考えるべきとも気づいていなかったです。この頃、とにかくまずは「私がやりたいことを認めて欲しい」という思いで精一杯でした。

ーーークラフトフェアに出店されたりもしていたのでしょうか?
山田:この頃ってまだお店にも置かせてもらっていないし、最初はフリマみたいなところしか発表する場を知らなかったんです(笑)。代々木公園のフリマで、お隣さんは50円で古着を売っている、というような状況で全然見向きもされなくて。出店してても1個も売れない、なんてことも全然あったし、足すら止めてもらえないこともありました。

ーーーうーん、場所や時代的なこともあったのでしょうか。
山田:今でこそ真鍮とかってみんなが使うようになったけど、当時は認知度も低いしお客さんにとっては結構マニアックだったようです。2000年すぎから、世の中で手作りがブームになるにつれて、手作り品だけのマーケットも増えてきて、そっちに出てみようかなと思いはじめました。

ーーーそれがカワサキアートマーケットだったんですね。
山田:そうなんです。実際に会場に行ってみて出たいなと思って、どうやったら出店できるのか、全身真っ黒でニット帽・サングラス・髭のコワモテの事務局のおじさんに聞いた記憶があります(笑)。その後審査に通って出店したものの、ここでもはじめはやっぱり売れなかったです。

カワサキアートマーケットにて

ーーー当時はどういった作品を販売していたのでしょうか?
山田:当初はまだ作れるものも限られていて、ライトなどインテリアが中心でした。周りはイラストやビーズのアクセサリーや布ものなど、手に取りやすいものが多かった中、素材自体もわかりづらかったようで、「これは廃材で作っているの?」と言われることもありました。見せ方もまだまだわかっていなかったなぁと思います。

作品を作っているだけではわからなかったこと

ーーーやはり厳しい世界なんですね……。年表に「毎月」カワサキアートマーケットに出店、とありますが、だんだんと見せ方など変わっていったのでしょうか?
山田:そうですね、なにせ足を止めてもらえず暇で、時間はたっぷりあったので(笑)、まずは色々周りの出店者さんを見て、みんなはどう売っているのか、私と何が違うのかを学び研究していました。

ーーー例えばどんなことでしょうか?
山田:あの作家さんはPOPを可愛く書いているなー、ということに気づいたら可愛い字を描く練習をしてみたり、買ってくれる人に作品を渡す時、袋にささっと手書きでちょっとしたイラストを描いて渡したら喜んでくれた! とか、グイグイ来るいやらしい接客にならないような会話とか、作品を作っているだけではわからないことがたくさんありました。事務局のコワモテのおじさんにも、「亜衣ちゃん、テーブルクロスはちゃんとアイロンかけなきゃ!」と教えられたりとか(笑)、もう本当にそういうところからのスタートでした。

ーーー1つひとつが発見で、良い刺激がたくさんあったのですね。
山田:それまでは、自分がいいと思ったものを作っていれば、いつかは誰かに見てもらえると思っていたけど、そういうことだけじゃだめで、仕事としてやっていくためには、自分が考えてなかったところにまで気を配らなければならないんだなと学びましたね。そういう意味で、ここは転機と呼べるなぁと思います。あとは、やっぱりお客さんと直接話すことは大事だし勉強になります。お客さんがいいと思ってくれないと買ってもらえないですしね。

ーーーお客さんとはどんな会話をされますか?
山田:「これはこういうふうに使うんですよ」とか、「こういう使い方もできますよ」っていうことだったり、直接ありがとうと言いたいな、とか。とにかくお客さんと話すのが大好きで全員としゃべりたいんです。ちょっと自分が席を外した間にどんな人がきてどんなものを買ってくれたか、とかもすっごい気になっちゃいます。

ーーーもみじ市でもお客さんとの会話が楽しみとおっしゃっていましたね。
山田:はい。他の出店者さんの行列に並んで作品をゲットして疲れ切っているお客さんに、まぁまぁここでちょっとゆっくりしてってよ、ってかんじで喋っていたりもします(笑)。私はブースから動けないので、「それどこで買ったんですか?」とか、「こんなお店があったよ〜」とか、「お姉さん動けないでしょう? 1個あげるわよ」とか(笑)。他愛のない会話も楽しいです。あと、同じデザインの作品でも「ちっちゃくて可愛い」となったり、「このサイズじゃなぁ〜」といったお客さんのちょっとした声とかも、とても参考になります。自分の作るものと、買ってもらえるものの違いも知れたりします。

2010年のもみじ市にて。きっと今年も変わらぬ笑顔で迎えてくれるはず。

元気じゃない時に見ても、邪魔にならないもの

ーーーなるほどー。でも先ほど「私がやりたいことを認めて欲しいという思いがあった」、というお話を伺いましたが、作りたいものと売れるもののギャップに抵抗はなかったのでしょうか?
山田:抵抗はなかった、というか、とにかく仕事にすることが最大の目標だったので、売れなくてもいいや、というのじゃやっぱりだめだと思っていて。昔は将来の夢にアーティストと書かれたくなかった(年表参照)と言うわりに、自分の作りたいものを出そう出そうとしていたんです(笑)。どんどん新作を出さなきゃ、去年と違うことをしなきゃ、という思いで精一杯で、使い手のことまで気持ちがいっていなくて。

ーーーそこにだんだん変化が生まれてきたんですね。
山田:今思えば当たり前のことなんですけど、作品を買ってもらったら私の手からは離れてしまうけれど、買った人は使うたび、ましてや時計とかだと毎日見るものじゃないですか。お客さんに聞くと玄関に置いてもらっていることも多いようで、買ってもらった先のことを考えると、あえてここは凝りすぎずシンプルに仕上げよう、とか、飽きがこないもの、ずっと使ってもらえるものにしたいなと思うようになったんです。

ーーー山田さんの思う、ずっと使っていけるものとはどんなものですか?
山田:毎日家に帰ってきて、元気な時ばかりじゃないですよね。疲れていたり、すごく腹が立っていたりする時もある。そういう時にも邪魔にならないものだと思いますし、そういうものを作りたいな、と思っています。

ーーー確かに、山田さんの作品にはホッと安心するような、いつも側にいてくれる変わらぬ優しさのようなものを感じます。作品と暮らしていく未来の持ち主への思いやりが込められているのですね。
山田:もちろん作りたくないものは作らないし、無理にやっているわけではないです。お客さんと接するうちに、徐々に作品作りにおいて「自分が作りたいものを作りたい」という気持ちより「お客さんがずっと使っていけるものを作りたい」という気持ちのほうが比重が大きくなったんです。その後個展を開き、もみじ市に参加させてもらうようになって、手紙社で作品を取り扱ってもらうようになってからも、ずっとこの思いでもの作りをしています。

《インタビューを終えて》
山田さんの作品を見ると、なぜだかホッとする。そう思わせる魅力の源はなんなのだろうと、取材前ずっと考えていました。取材を通し、山田さんの手から離れた先の、まだ見ぬ未来の持ち主の日々に寄り添えるようにと、丁寧に思いが込められて作品が作られているのだと知り、ストンと腑に落ちました。10代の頃から時間をかけて真摯に山田さんご自身やお客さんと向き合い積み重ねてきたもの作りへの思いこそが、「charan 山田亜衣の“YEARS”」なのだと思います。そんな作品たちに、そして山田さんの笑顔に会いに、ぜひ多摩川の河川敷へお越しください。「charan 山田亜衣」の世界観と、使い手への思いやりの調和によって生み出される作品は、ゆっくりとあなたと一緒に年を重ねていくことで、きっとかけがえのない家族のような存在にもなるでしょう。

(手紙社 高橋美穂)