もみじ市 in mado cafe,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

松本寛司

【松本寛司プロフィール】
1976年愛知県一宮市生まれ。仏像や仏具を制作修理する仕事を経て多治見市のstudio MAVOで木工作家としての歩みを始めました。現在は渥美半島の海岸近くに工房を構えて、趣味のサーフィンと木工を行ったり来たりの毎日。木の板から読みとったかたちを彫り出し削り出し、生活の中で手に馴染み長く使える道具を制作しています。木から、海から、インスピレーションを受け、木の特性を生かした作品は、ひとつひとつ手仕事によるもの。スプーンの角度ひとつ取っても細かい調整がなされています。私(担当:小池)が愛用するのはスプーンとフォークが一体になったアウトドア用のカトラリー。インドアでも重宝しています。
http://kanjimatsumoto.com/


【松本寛司の年表・YEARS】

【松本寛司さんインタビュー】
仏師の世界からクラフトの道へ。そして、山の男から海の男へ。自然の中で、木を慈しみながら長く使える木の道具を作り続ける松本寛司さんは、どんな作家人生をこれまで歩んできたのでしょうか。担当・小池が聞いてみました。

木を彫ることへの目覚め

ーーー寛司さんは生まれも育ちも、現在の住まいやアトリエも愛知県ということになりますね。
松本:岐阜県多治見市の共同アトリエにいた時期を除けば、愛知県内を転々としてますね。学生、修行時代の名古屋市と、今の豊橋・田原市とでは文化圏が少し違いますけど。

ーーー家族に美術系の方とか、ものづくりをしている方はいらっしゃったんですか?
松本:いたって普通のサラリーマン家庭でした。強いて言うなら祖父が建具屋さんで、アルミサッシの普及とともに畳んでしまっていたんですけど、そういう血は受け継いだのかもしれません。

ーーーあまり美術に親しむ環境が無い中で高校から美術科に進むというのは、比較的特殊かもしれませんね。
松本:中学になって、普通科の高校にただただ通うくらいなら早く自立したいって思うようになったんです。そうしたら、親が「高校でも美術科とか建築科があるんだよ」って勧めてくれて、「美術科ならありかも」って目指すことにしたんですよ。入学するにはやっぱりデッサンとかも必要で、中3から習って受験しました。

ーーーナイス親御さんですね! 美術科高校も専攻が分かれたりするんですよね?
松本:3年生になると、専攻を選びます。それまではいろんなジャンルの美術を学ぶことができました。それで、当然彫塑彫刻の授業もあって、粘土を足していくような塑像制作はあまりしっくり来なかったんですが、木を彫って制作する木彫制作は不思議と没頭できたんですよね。それで、3年の専攻では迷わず彫刻を選びました。

ーーーそんな高校時代に、仏像製作会社で働きはじめるという最初の転機が?
松本:高校入学して、もう美大に進学するとか専門学校に行くとかいう考えはなくて、すぐに美術で食べて行きたいって思っていたんです。それを先生に相談していたら、探してくれて。

ーーー仏師、私も憧れたことがありますけど、ストイックそうなイメージです。
松本:最初は能面打ちに憧れていて、ああいう、一生を賭けた技術でひとつのものに魂を込めて……みたいな世界がかっこいいなと思っていたんです。そしたら先生が、「能面は古いものを長く使うから、新しい制作の仕事はあまり無いんじゃないか」と。それで、仏師の方に。3か所見学させてもらって、ちょうど担任の先生の同級生が彫り師としていたところにアルバイトで行かせてもらうようになりました。

仏師時代の大人たち

ーーー高校卒業と同時に、アルバイトで行っていた仏像製作会社に就職できたんですね。
松本:はい。そこは江戸時代から続いているところだったんですが「今は会社になっていて月給制で、日曜祝日休みで……」と。「だから、自動車免許だけ取ってくれれば雇えるけど、うちに来るか?」と(笑)。

ーーー実際は修行という感じでしたか?
松本:最初はやはり雑用からでした。そして仏像の修復が多かったので、仏像を洗ったり古い漆を剥がしたり。だんだん、ちょっとした修理も任されるようになりました。脇侍だったり、十二神将だったりでしたが、手が取れてしまった像の手を作る、剣が無くなってしまった像の剣を作る、削れてしまった台座に飾り彫刻をするとか、そういう作業ですね。ちょっとお手本見せてくれるだけだったので、終業後、夜の時間を使って練習したり刃物を研いだりしていました。日中は雑用が多くて、とてもそんな余裕は無かったんですよ。

20歳頃練習していた仏像

ーーー本当にストイックな環境だったんですね。でもここが、今の寛司さんの仕事のベースになっているんじゃないですか?
松本:彫ることや刃物の研ぎ方とか、作品の梱包の仕方とか、そういう技術はだいぶ身につきました。そして、この時代にもうひとつ重要な出会いが。年表の転機の中にもあるんですが、彫刻の師匠に付いて山登りを始めたんです。師匠は、先にお話しした、高校の担任だった先生の同級生です。女性なんですけど、趣味が登山で、山岳会を作って仲間と山に登っていたんです。本当は俳句の会だったのが、椎名誠さんの影響があったみたいで。そこには色んな大人たちがいて、中には戦中に満州を端から端まで歩いたという猛者も。スケールが違いました。そこで、素敵な大人は遊びが上手なんだなということを学んで、それから積極的に山で遊んだりするようになりましたね。

山からサーフィンへ

ーーー今はどちらかというと寛司さんが魅了されているのは山より海ですよね。
松本:そうですね。師匠には「登山は良いけど、クライミングは指を痛めて彫刻ができなくなるからダメ」と言われていて、登山よりもう少し強い刺激を求めていたんでしょうね。サーフィン映画を観て「これだ!」とサーフィンを始めるようになったんです。それからは隔週ぐらいで週末にサーフィンをするようになりました。

ーーー山は山で大切な場所に変わりはなかったですか?
松本:アウトドアは好きですからね。ただ、色々と山を登っているうちに、日本の自然の中にはやたらと人工物が多いってことが気になり始めて。それで年表にもあるんですが、2011年に「アメリカなら無垢のままの自然の中を歩けるのでは」と、色々と調べてジョン・ミューア・トレイルを縦走することにしました。そこは、西海岸寄りのカナダ付近からメキシコ付近まである自然歩道で、僕はその中のヨセミテからマウントホイットニーまでの300kmくらいを歩いたんですが、途中3〜4,000m級の山を7つ越えるんです。本当に誰もいなくて、何も無くて。手つかずの自然がありました。7つのピーク、それぞれを越えるたびに、山が現れ、谷が来て、水が流れて、森ができる、そんな有り様を実感することができました。7回。これまたスケールが違いますよね。時には大規模な山火事の跡があったりするんですけど、その辺はジャイアントセコイアという樹齢何千年っていう木が密集してたはずなんです。よく見ると、火事で更地になったところから新芽がたくさん出ている。火事が無かったらここに新芽が生えるチャンスは無かったかもしれないと思うと、自然の摂理を感じましたね。

ーーー雄大な風景が思い浮かびますね。どのくらいで踏破できたんですか?
松本:2週間くらいですね。最初の3日くらいは、山で1人で野営していると、夜は本当に怖かった。でもだんだんと空に見守られている気がしてきて、むしろ癒されるようになってきたんですよ。自然に守られているといいますか。空には星がいっぱいで、星自体に人格のような意識が無かったとしても、50億年とかそれぐらいの間同時にいるのなら、互いの存在は確かに感じているんじゃないかと思えて。宇宙は実は孤独では無いんじゃないかと。あ、流れ星が降りる時の音まで聞けましたよ。「ジュゥゥー……」って。

ーーー山でそれほど大きな体験をしたけど、今は海、サーフィンが勝ってるんですね。
松本:ジョン・ミューア・トレイルでの体験は人生観変わるには十分でした。「やりたいことやらなきゃ!」っていう気持ちになりましたし。ただ、山にいると、どうしても生活を背負っている感が拭えなかったんですね。食料を確保して、寝床を確保して、とか、仕事をしているのとは変わらないところがあって。「本当は冒険がしたいんだ」という気持ちが強くありました。そうすると、サーフィンは裸一貫、身ひとつで大自然に挑むじゃないですか。それも1、2時間で冒険が味わえる。波に揺られて空を見ているだけでも大きな地球や宇宙を感じることができる。それで、サーフィンにどんどん魅了されていきました。今、渥美半島にアトリエを構えているのも、サーフィン環境が整っているからですね。職業病的な腕とか、腰とかの痛みが軽減されるようになりましたよ。

今回のもみじ市にも並べるという、ハワイで「paipo」と呼ばれるボード
波乗りボディーボードのように、足ヒレをつけて使うそう

MAVOで木の器作りに開眼

ーーーお話しは戻りまして、25歳くらいで仏像製作会社を退職するんですね。
松本:当時の環境だと、どうしても自分の作品制作をする時間が無かったんです。それで、作品作りをするために辞めました。3、4年くらい、ひたすらアルバイトしながら、旅をしたりして。でもちゃんとした工房が無いので、作品といってもアクリル画や油絵を描いたりしていました。

寛司さんの油彩作品

ーーーそのアルバイト生活から、2004年の転機、「スタジオMAVO」への入居に至った経緯はどんなだったんですか?
松本:アルバイトをしているうちに、どんどん勤務時間が増えて、お金はそこそこ入るけど制作する時間が無くなるという事態になってしまたんですね。そんなタイミングで、高校時代の先輩がMAVOを紹介してくれたんです。今もお付き合いのある「ギャルリ百草」の主宰でもあり陶芸家の安藤さんも先輩と親しくて、MAVOにつながりました。まだできたばかりの共同アトリエで、多治見市だから様々な陶芸家が集まっていました。常時20人くらいいたのかな。世代の幅は広かったですよ。

ーーーMAVOが「転機」と考えるのは、やはり今の「木の器を作る道」が始まったからですか?
松本:そうですね。作家としての姿勢というか、意識を生じさせてくれたことが大きいですね。MAVOの陶芸家たちは、それを生業にしていこうという覚悟を決めている人ばかりで、自分の作風で、作家として、作品の対価で食べていくという意識が強くありました。そして、美術館やギャラリーのホワイトキューブで展示することではなく、玄関など生活空間のスペースに飾って美を生み出すという考え方を持っていました。「用の美」なんて言われますけど、そういった生活と密接に関わる器作品より、アートや美術が果たして上なのか? なんていう熱い問いかけも出るほど。

ーーーそれは少なからず作家としての生き方に影響を与えますね。
松本:はい。なので、当初は彫刻のようなこともやろうとしたんですけど、1年経たないくらいで「木の器で、作家として勝負しよう」となりました。

ーーーそれまでは木で器を作るなんていうことをしてなかったんですよね?
松本:手探りで自分のスタイルを見つけようとしていました。はじめは、ろくろを回して轢く、いわゆるウッドターニングの機械を買って、試してみたりしました。結局刃をうまく研ぐことができなくて断念することになるんですが。迷いがまだある時に仲間から「自分の過去にヒントがあるはず。一番濃く歩んできた道があったはず」という言葉をもらって、「自分は仏像を手で彫ってきた、手彫りだ!」と進む道を決めました。

ーーー木の扱いは仏師時代にだいぶ経験を積んでましたよね。
松本:と思いきや、仏師時代に扱っていた木は10種類に満たないくらい。主に使うのはそのうちの2種類くらいだったんです。今僕の作品で主に使っている栗とか楢は使ったことがありませんでした。色々試していく中で、徐々に絞られていったんですね。ひとりの作家として認知してもらえるようになりたかったので、できるだけ使用する木を限定したかった。「楢の木の器なら松本寛司」みたいな。器だから、匂いとか味とか、洗った時にどうなるかとか、色々と試しました。ケヤキなんかは米とかパンに全然合わない。

さあ、もみじ市

ーーーいよいよ10月、もみじ市です。寛司さんにとってのもみじ市とは?
松本:2007年に、今手紙社の代表で、当時もみじ市を立ち上げたばかりだった北島さんたちが、雑誌の取材でMAVOまで来てくれたんですよね。どこかの展示で作品を見つけてくれていて。そのご縁からもみじ市に出店するようになりました。それまでもクラフトフェアなんかには出たことがあったんですが、もみじ市は人の勢いが凄いのと、カフェとかパン屋さんとか、そういう出店者さんも洗練されていて「違うな」と思いました。イラストレーターがフィーチャーされているのも独特な感じがしましたね。もみじ市で知り合った作家さんも多いですよ。隣同士になって仲良くなって、ずっとコラボ作品を作っている左藤吹きガラス工房さんとか。それからmakomoさんの隠れファンだったりします。もみじ市出店は嬉しい出来事で、やっぱり今でも特別ですね。

2007年に取材を受けた『自休自足』

ーーー3人の息子さんたちもどんどん成長していますね。
松本:賑やかですよ。自分と同じ道にとは思いませんけど、何かものを作る道に進んで欲しいな、とは思うことがあります。過去に学ぶ、大先輩に学ぶということは大事で、その最たるものが自然だと思うんですね。だから、自然の中で調和の取れた美を吸収させてあげたいです。僕も自然をお手本に考えて作品を作っています。長い時間をかけて調和が取れているんだ、それが美なんだ、と。

《インタビューを終えて》
木が好きだから、みんなにも木の道具を使って欲しい。でも自然に悪いことはしたくないから、長く使えてメンテナンスのできるものを作りたい。という寛司さん。理想の“持続可能社会”を目指して、制作を続けています。アーティストとしての一面と、ナチュラリストとしての一面、その狭間で試行錯誤し続ける姿が浮かんできました。もみじ市でぜひ、いつまでも生活の中で呼吸するような寛司さんの作品を手にとってみてください。

(手紙社 小池伊欧里)