もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

小谷田潤

【小谷田潤プロフィール】
1978年東京生まれ。立命館大学卒業後に信楽と常滑で陶芸を学び2004年八王子にムササビ窯を築窯。もみじ市には初開催時からの皆勤賞ながら、毎回新しいことに挑戦し続けてくれています。常にとことん悩みながら探求していく姿は、名のある作家となった現在でも変わりません。今年は2年ぶりに小谷田さんと初めて出会った地、北海道でのイベントでご一緒でき、新たな引き締まった気持ちにさせていただきました。私(担当:小池)にとってのミスターもみじ市。共に応援している埼玉の某野球チームは、痛快な野球でなんとか踏ん張っています。今年こそもみじ市後の日本シリーズ出場を願って止みません。
http://www11.plala.or.jp/koyata/index.html


【小谷田潤の年表・YEARS】

【小谷田潤さんインタビュー】
ファンになればすぐに「あ、これは小谷田潤の器だ」とわかる。突拍子もないデザインではない。どんなシーンにも馴染み調和をもたらす。それでいて単独での“かっこよさ”がある。小谷田さんの陶器に宿るそんな個性の背景にあるものとは? 小谷田さんのこれまでを聞いてみました。

始まりは大学のサークルから

ーーー40代、一番脂の乗る季節に突入しましたが、日々の制作は充実していますか?
小谷田:しっかり作り続けていると、昔に比べて技術が高まってくる。技術があれば、当然できることが多くなるので、昔やろうと思ってできなかったことができてくる。そういう楽しさは増えていますね。ただ今年が最後の厄年なので、新しいことはなるべく避けるようにはしています(笑)。

2018年の個展「二度の器」より

ーーーでは技術がまだまだだった駆け出し頃のお話から。陶芸始められたのは大学のサークルからと伺っていましたが、それまでは今の仕事につながるようなことはしていたんですか?
小谷田:全然ですね。強いて言えば、小学校の時に絵画教室に通ったくらいでしょうか。自然派八百屋の2階にある不思議な教室だったことを覚えています。それから、今思えば家で使っている器が益子のものだったり、そういう馴染みはあったかな。あとはプラモデルすら作った記憶無いし、当時のごく普通の流行りだった「ミニ四駆」とか「キン消し」とか「ビックリマン」とか「ファミコン」とかに興じてました。

ーーー私もまさに「それそれ!」な世代です。そういえば八王子出身と思っていたんですが、微妙に違いました。
小谷田:今回年表を作るにあたって、気がつきました。立川の病院で生まれて、小学校に上がるまで過ごしていたのは国分寺で、それから八王子に。小谷田家自体はずっと八王子なんですけどね。ただ親が教育に熱心だったので、通っていた小学校は国立市の私立でした。そこから中学受験をして中高は世田谷区の方だったから、実は八王子とは少し疎遠だったんです。

ーーーその経歴から陶芸家になるとはなかなか予想できませんね。そして大学は京都の立命館に。京都という場所は狙っていたんですか?
小谷田:とにかく親元から出たかったので。本当は中学高校時代に学校から近くて遊んでいた、下北沢とかに住みたかったんですが……。東京で受かった大学がなくて、唯一受かった京都に。でもよく考えたら、都内の大学だったら絶対に家から通わされてましたね(笑)。

ーーー大学でついに陶芸との出会い。陶芸サークルに入るきっかけは何だったんでしょう?
小谷田:中高は剣道部だったんですけど、大学の運動部はさすがにハードルが高くて。それで初めての独り暮らしだし、身の回りのものを自分で作りたいと思って陶芸サークルに入ってみました。

陶芸サークルでの小谷田さん

ーーー当時の写真、今と全然変わってないですね! 食器を自分で作ってしまおうという発想からの陶芸、学生でなかなかそこにたどり着くことはない気がします。
小谷田:自分が使いたいようなものが世の中に無ければ、自分で作るのが早いじゃない。ただ、作り過ぎたときに人にあげたりもしてたんですけど、最初の頃は技術が無いから重い器しか作れなくて、かなり苦情がきました(笑)。

サークルの工房でろくろを回す小谷田さん

ーーーということは、当時作っていたのはほとんど食器ですか? オブジェとか花器なんかを作ることはありましたか?
小谷田:年に1回、薪で窯を焚く研修のようなものがあって、そこでは床の間に飾るものを作るというテーマがありました。その時は花器を作っていましたよ。

ーーーサークルにはもちろん師匠のような存在はいないんですよね?
小谷田:そうですね。先輩から教えてもらって、あとはサークルの工房が自由に使えたので、それでずっと作陶していました。そして、これは今思えば自分が陶芸の世界に深く入り込むきっかけのひとつなんですけど、定期的に40歳くらいの陶芸家が教えに来ていて、その人のセンスに疑問を感じていたんです。

ーーーお山の大将的な存在ですか?
小谷田:そう。僕らは何も知らない素人なわけだから、その陶芸家の言うことが絶対で、評価も絶対でした。他の陶芸家を知らないので、「本当にこの人の言ってることが正しいのか?」とずっと疑念を抱いていたんです。人の好き嫌いで評価が変わるし。僕は反抗的な態度をしていたから、評価低かったですね(笑)。

陶芸家として独立

ーーーそれで、その反骨精神(?)もあって、“本当の陶芸”を確かめるために陶芸を本格的に学ぼうと?
小谷田:そう、ダサい奴が言っていることが本物なのか、それを解明するために(笑)。大学は3年で全部単位を取ってしまって、4年の時に信楽の学校の試験を受けました。受かったので、卒業後すぐに信楽に。

ーーー最初信楽だった理由はあるんですか?
小谷田:信楽は、割とろくろで大物を作るんですよ。ろくろには30cmの壁というのがあって、高さ30cmを超えるものを作るためにはちゃんとした技術が必要。それを学びたくて。その後は、もっと小ぶりの道具も作りたいと常滑に行きました。

ーーー本格的に陶芸を修行するってどうでしたか?
小谷田:まずは「ちゃんと教えてもらえた!」という気持ちがやっぱり強かったです。本物の技術を。職人になるための技術を教えている場所だったので当然なんですが。サークル時代のモヤモヤが消えていきました。

ーーー修行を終えて、すぐに独立というのもすごいですね。
小谷田:いや、それは、ただそうするしかないタイミングだったんです。当時、作家になるには、師匠か窯元かどこかに弟子入りする必要があって。今のようにSNSでセルフプロデュースできるような時代ではなかったし。どうしようかと思っていたら、実家の敷地が空いて、「今帰ってくれば工房として使える」と言われたので、そうすることにしました。

ーーームササビ窯の始まりですね。そういえば“ムササビ”の由来はどこから?
小谷田:はっぴいえんどの曲『暗闇坂むささび変化』からです。ムササビは好きだから。歌詞に出てくるのはなぜかムササビではなくて“ももんが”なんですけどね。今のロゴマークは同じ八王子のイラストレーター、イシイリョウコさんに描いてもらいました。2010年のもみじ市の時ではコラボもして。陶器と人形で遊園地を作るというなかなかのチャレンジだったから思い出深いです。最初は1台だった窯も今では4台に。かれこれ15年以上経ちました。

イシイリョウコさんとのコラボマグ(2014年)

2006年、大きく振れた年

ーーー築窯してから初個展まで2、3年ありますが、どういう活動をしていたんでしょう?
小谷田:まずは自分のスタイルを作ることでした。サークル時代から、本やお手本を見て真似て作るようなことしかしてなかったので、本当に自分が欲しいものは何か、作りたいものは何かを探していきました。

ーーーそれで徐々に今のかたちができてきたんですね。運命のKOHOROとの出会いはどんな縁があってのことだったんですか?
小谷田:もともと中高時代のマラソンコースが二子玉川のあの辺で、馴染みがあったんです。2005年頃ちょうど同窓会が近くであって、良さそうな雑貨店を見つけたので入ってみたのがKOHOROでした。今ももみじ市に出ている左藤玲朗さんのガラス器とかが置いてあって、「このお店だ!」と思いました。それで、すぐに自分の作品を持って売り込みに行きました。

ーーー売り込みだったんですね!
小谷田:KOHOROもまだできて間も無かったので、扱ってもらえることになり。それで次の年の個展へとつながったわけです。その個展に当時『自休自足』の編集長だった(現・手紙社代表の)北島さんが来てくれて、雑誌で取り上げたいという話をいただきました。そして、その後に「もみじ市」というイベントを立ち上げるからと、出店オファーをもらいました。

ーーー次々に人生が動いていった感じがありますね。他の出店イベントとかは出たことが無かったんですか?
小谷田:ちょうど初個展と初もみじ市の間に1度、クラフトフェアまつもとに出ました。陶芸家になると決めた時に、目標が「日本の全地方に作品を置けるようになる」だったんです。やっぱり、普段使い続けて欲しいから、どこに居ても買ってもらえるということが理想で。“まつもと”に行けば、全国につながるのではという思いがありましたね。

ーーーそんな考えを持っていたとは。今は、かなり全国制覇に近づいてるんじゃないですか?
小谷田:以前扱っていたけど閉めてしまった店なんかもあって、増えたり減ったりですね。でも今はそれほどそこにはこだわっていないです。届ける方法が今は色々とありますしね。

もみじ市に思うこと

ーーー小谷田さんは1回目からもみじ市に出店し続けている数少ない作家です。もみじ市についてはどんな思いを持っているんでしょう?
小谷田:もみじ市が特別なのは、いろんなジャンルのすごい人たちが集まっていること。僕の考え方として、「良いものがあればそれを使えばいい」というのがあって、「陶器が好きだから陶器で全て揃える」なんていうのはどうも違うなと思うんです。「ここは木のお椀だな」「これはガラスのコップで飲みたいな」とか、そういう多様性というか、要所を占める良さが生活には必要だと思っています。だから、陶器市はほとんど陶器しかないじゃないですか。そういうのとは違う、“きっかけの場所”がもみじ市なんです。良さですね。だから、もみじ市では“ついでに”買ってもらえるのが嬉しい。「知らなかったけど、見たら良さそうなものだったから買ってみた」という出会いがあるのが良くて、もみじ市に出ている人たちはみんなその世界の第一線にいる人たちだから、信頼もできるし、こんな良い場所はないですね。ちなみに、1回目のもみじ市のうち1日は自分の結婚式と重なってしまって。実は1日出てない日があるというのは内緒で(笑)。

10周年のもみじ市・テーマ「FLOWER」に合わせた花型の平皿を作った

ーーー毎年のもみじ市と、4年おきの手紙舎での個展、それぞれを節目や転機と捉えてくださっていて、ありがたいです。次の個展まで3年を切りましたね。
小谷田:なぜかサッカーW杯の年に個展ということになっているんですよね。ずっと「できるようになりたい」「良いものがなかなか無いから自分で作りたい」という気持ちで制作してきました。「上達したな」と思えるようになったのはここ5年の話ですね。あと年表にある旅仲間、これは今年コラボで『kuma』を一緒に作った岡崎(直哉)さんと高旗(将雄)くんなんだけど、彼らとは制作のことでも「次はこうしてみたら?」なんて語り合うことが増えていて、色々と影響を受けています。最近はちょっと受け過ぎかな? 作品に向かう時はいつも独りなので、多分彼らもそうで、たまには一緒に旅をして、友として、ライバルとして、これからも良い関係でいたいですね。少年ジャンプ黄金期世代としては。

《インタビューを終えて》
「若い頃は俺、超上から目線だったな」などと振り返っていた小谷田さん。陶芸家として見事に独り立ちし(立命館卒唯一のプロ陶芸家という噂も)、父親となり、そのひと言ひと言には確かな説得力がありました。これからも変わらず「自分が使いたいものを作る」「良いと思うものがないから作る」の精神で作陶し続けているに違いありません。厄年だからと、今は積極的に動かず「新しく何しようか?」を貯めているそうで、厄年が終わった後にどんなことをしてくれるのかが今から楽しみです。

(手紙社 小池伊欧里)

【もみじ市当日の、小谷田潤さんのブースイメージはこちら!】