もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

ユーリ白樺かご

【ユーリ白樺かごプロフィール】
白樺へ深い敬意を抱き、樹皮を自ら採取するところから、かごにするまでのすべてを1人で手がける。そのきっかけは、1995年の夏、北欧の地で出会った白樺の物語。樹齢何百年という木の世界において、白樺の命は70年ほどと短く儚い。それでも厳しい荒地に真っ先に根付き、強く生き抜く姿に深く惚れ込んだ。今日もユーリさんは、白樺の生き方に憧れ、その白樺の魅力を多くの人に伝えたいという一心で、かごを編んでいる。ひとつ手に取ると、心をすっと清めてくれるような心地良さと、力強い生命力が感じられるのは、ユーリさんの白樺に対する純粋な想いが込められているからなのでしょう。
http://juliwebsite.wixsite.com/juli
Instagram:@julikago

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もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

liir(出品のみ)

【liirプロフィール】
ガラスの器や花器、アクセサリーなどを手がける、liir・森谷和輝さんの作品に初めて出会ったのは、ちょうど3年前。もみじ市の新たな出店者を決めるため、スタッフが持っていた一輪挿しを拝見した時でした。四角とも楕円とも異なる不思議な形をしたガラスには、小さな気泡がたくさん入っていて涼しげな印象。そのまま飾っても絵になる美しさを湛えながらも、挿した花の邪魔にならず、その魅力を十二分にひきだす作品に、思わず目が釘付けになりました。澄みきったガラスに淡く色づいたガラス、技法の違いによって見せる様々な表情も、彼の作品が人々の心を捉えて離さない理由のひとつかもしれません。
http://www.liir1116.com/
Instagram:@liir1116

【商品カタログ予習帳】

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出店者紹介,ジャンル:CRAFT

Ren

【Renプロフィール】
毎朝目覚める度に、私を静かに奮い立たせてくれるものがある。昨年、手紙舎 2nd STORYで行われたRen・中根 嶺さんの個展で手に入れたアカシカのオブジェだ。中根さんの作品の中で初めて目にしたものであり、彼がつくりだすものに惚れ込んだきっかけでもある。ベッドサイドテーブルに飾られたそれは、どんな日も変わらず(当たり前だけれど)颯爽とした佇まいで、気が滅入っている時でも、そっと私の背中を押してくれるように思えるのだ。金槌で叩き上げられた作品から滲み出る、揺るぎない力強さがその理由かもしれない。それでいて、移ろいゆくものへの儚さも感じられるのだから不思議だ。照明器具やオブジェ、器に装身具など、彼の手から生まれくる金工作品は、絶大な存在感を放ち日常を味わい深いものに変えていく。
http://ren-craftwork.com/
Instagram:@ren_nakane

【Renの年表・YEARS】

【Renインタビュー】
2017年の初出店時からずっと担当をさせていただいているRenの中根 嶺さん。公私ともに新たな局面を迎えた中根さんのもとに訪れ、手紙社の藤枝 梢がお話を伺ってきました。

モノ作りの原点

ーーー焼き物屋の父、染織家の母を家族に持つ中根さん。やはり幼い頃からモノ作りの世界に興味があったんですか?
中根:一番最初の思い出は、保育園の時にシールを剥がすのがめっちゃ上手いと褒められたことですね。剥がしちゃダメなものを剥がしてしまって怒られたりもしたんですけど(笑)。小学生の頃までは、何かを作って褒められるというのが嬉しくて。

ーーー周りからの声がきっかけになっているんですね。
中根:中学生の時にはルアー作りに没頭していました。滋賀県の人たちはよく琵琶湖にバス釣りに行くんですけど、釣りそのものよりルアーを作る方が面白くて。その後、進学する高校を選ぶことになった時に、受験勉強が少なくて済むという理由で美術系の高校を選択したんです。それまでは「絵が上手い」「手先が器用」って褒められていたんだけど、実技試験の対策で画塾に通うようになってから、自分がめちゃくちゃ下手くそだなということに気がつきました。

昔作ったルアー

ーーーその画塾でデッサンを学び、美術系の高校に進んだんですね。高校では何を専攻していたんですか?
中根:彫刻のコースを専攻していました。彫刻科を選んだことが、ある意味1個のターニングポイントになっているかもしれないです。この時に教わった立体的に形を捉える方法などは、今作っている動物のオブジェの原点になっているので。通っていた高校は美術系の進学校だったので美大や芸大に進む人がほとんどなんですけど、どの分野に進むのか決めきれず進学はしませんでした。

高校時代に使っていた鑿

ーーー同級生とは違った道を選んだ後は……?
中根:木工やガラスなどにも興味があったんですけど、その世界で活躍している人が周りにいる両親から、「食べていくのが大変だぞ」という苦労話をたくさん聞いていて。それならまずは、自分の力だけで生活する大変さを知ろうと東京に行きました。

東京での日々

ーーーいきなり上京したんですね!
中根:しばらくの間はステージ設営や、テレフォンアポインターなどのバイトをして過ごしていました。高校生の時にライブハウスで照明のバイトをしていたことがあって、舞台美術などの大きなモノ作りに興味を持ったんですけど、規模が大きすぎて自分の性には合わないなと。ひとりで完結するような小さなモノ作りの方が向いていると気がつきました。

ーーー自分の進むべき道を悟った後は、どうされたんですか?
中根:求人サイトでたまたま見つけた工房に応募し、拾ってもらいました。もしそこと出会っていなかったら、今は全く違うことをしていたかもしれないです。そこは金工とレザーをやっている場所だったんですけど、実は最初はレザーの方が気になっていたんです。上京してアルバイトをしていた時期は、ハンズでレザー材料を買って手を動かしていたこともあったので。でも、どこの部門に配属されるのかは自分の意思ではどうにもできず、入社後は金工の部署に配属されました。

ーーー金工をやることになったのも、本当に偶然のことだったんですね!
中根:最初は「金工か……」と思いました(笑)。ところが、金工の技術をイチから教えてもらううちに、思い通りにならないのが悔しくて、すっかり金属という素材にのめり込んでしまって。19〜24歳までの5年間、その工房でブライダルリングの制作を主に行なっていました。

ーーー当時のことで特に印象に残っていることはありますか?
中根:やはり師匠の存在は大きいです。「技術に終わりはないと思え」とよく言われていました。教えられたことができるのは当たり前なんですよね。たとえ時間がかかったとしても、手取り足取り教えてもらえば誰でもできるようになる。でもその教えてもらった技術が100%正解というわけではないし、自分が作りたいものをいかに上手く作れるかというのを、自分の頭で考えられるようになって初めて、やっと一人前と言えると。職人たるもの、常に満足することなく試行錯誤し続けるべきだと教えられました。

自分がいいと思えるものを

ーーーその工房はどういったきっかけで出ることになったんですか?
中根:京都の町家に空きが出て、先輩に「一緒にやろう」と声をかけてもらい、独立することになりました。築90年の建物を自分たちの手で少しずつ改装していって、「PolarSta」という工房兼ギャラリーをオープンしました。

金閣寺の近くにあるPolarSta

ーーー独立した当初はどんな作品を作っていたんでしょうか?
中根:それまでは指輪ばかり作っていたので、違うものを作りたいなと漠然と思っていたんですが、あらかじめ構想を練っていたわけではなくて。ふと、飾ってあったベトナム土産の動物のオブジェが目にとまり、最初にアカシカのオブジェを作ったんです。アクセサリーは用途があるからある程度制約があるんですけど、オブジェは作り手の個性が露骨に出るのでそこに惹かれました。

最初に作ったアカシカのオブジェ

ーーー代表作のひとつとも言える動物のオブジェは、この時にすでに誕生していたんですね。
中根:あとは、最初の頃は京都の手づくり市などに出しながら、その日暮らしのような感じで自分の作品を売っていました。万人受けするキャッチーなものの方がいいかなと思い、ブローチとかを作っていたんですけど、「これでいいのかな?」ってなんか引っかかっていて。

でも、とあるイベントで小学生の子がアカシカのオブジェを買ってくれたことがあったんです。動物だからパッと見て食いついてくれる子供は多いんだけど、お母さんが値段を見て「大人になったら買いなさい」となることがよくあって、その時も同じパターンかなと思っていたんですけど(笑)。イベントの1日目にジッと見ていて、その日の帰り際にもまた戻ってきてくれて。そしたらその子が2日目に「これください」って、大量の500円玉を握りしめて来てくれたんですよ。ちっちゃい頃から貯金していたお小遣いとかお年玉とかを、このために崩してきて。動物のオブジェは最初は自己満足で作ったものだったし、用途もないからそんな簡単に売れるものじゃないなって思っていたけど、キャッチーなものでなくても気に入って欲しいと思ってくれる人がいるんだっていうのは、すごく自信になったし有難かったです。それからは、売ることを意識して媚びるようなものを作るのは極力避け、自分が「いい」と胸を張って言えるものを作るのが大事だなと感じました。

ーーーRenではブライダルのオーダーなども受けてますけど、純粋に自分が作りたいものとの違いはありますか?
中根:ベクトルの違いというか、問われるものが違うと思っています。オーダーの場合は、センスというよりかは技量が問われる。お客さんがどんなものを希望しているのか意思疎通をしっかりとるコミュニケーション能力や、欲しいものにいかに近づけるのかという再現能力だったり。自分が作りたいものを作るときは、センスが問われると考えています。この間、「クジラ以外のランプを作ってください」という注文があって「マグロで作れないですか?」って言われたんですよね。マグロのあのフォルムをどう再現するのかというのは技量が問われる部分だけど、自由に新しいものを作る場合は何のモチーフを選ぶかというところから大事になってくる。それに、「クジラの方がいいよね」って言われるのは避けたいから、「こうきたか!」って前のものを超えるものを作り出したいと思っています。反対にオーダーの場合は、自分では想像できないものができたりするので、それもそれで面白いですね。

新たな拠点の始まり

ーーー現在、新しい工房を絶賛改装中ですが、こちらも後々のターニングポイントになりそうですね。
中根:そうですね。5年前のPolarStaを作るときに「もういい」と思うぐらい改装作業をやったので、またやるのは嫌だなって思ってたんですけど(笑)。経験があるから要領は分かっているんだけど、その分大変さも記憶に残っているので。

改装中の様子

ーーーそれは確かに辛いですね……。今、何か新しく作ってみたいものってありますか?
中根:空間を作っているので、それにまつわるものが多いですね。取手とか、「あったらいいのにな」って思うものが次から次へと出てきます。DIYは普段のモノ作りとは違うモノ作りだけど、繋がるところがあると思う。作品に関連づけるのには時間がかかるかもしれないけれど、どう影響を及ぼしていくのかが楽しみです。あとは、工房の改装作業と並行しながら、車の中にも工房を作ろうとしています。

 

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ーーーInstagramで拝見しました! 中はどんな感じになっているんですか?
中根:後部座席は全部取っ払ってしまい、拾ってきた古い机の天板を中に入れて、作業台にする予定です。金工はそんなに作業スペースも必要ないし、バーナーと叩く場所と少しの電気が使えれば十分なので。

ーーーなぜ車の中に工房を作ろうと……?
中根:現在改装中の物件を探している時も、大きな音が出るのがネックでなかなかいい場所が見つからなくて。発想の転換で、音が出るなら自分が人のいないところに動けばいいかなと思いやってみました(笑)。

あとは、ここ最近展示やワークショップなどを色々と経験していく中で、やっぱり作るものが一番大事だなと実感したんです。そのためには、常に新しいものを作っていかなきゃいけないけど、場所や環境が変わると作るものも変わるなと思っていて。旅している時とか山を登っている時とかにデザインを考えたり、周りの環境からインスピレーションを受けることが多いので、車の中で作業すれば出てくるものも違うものになるんじゃないかなと思っています。やってみないと分からないですけど(笑)。だから今一番やりたいことは、色々な景色を見てインスピレーションを受けながら作品を作ることですね。

《インタビューを終えて》
5年間拠点としていた「PolarSta」を離れることが決まり、新たにDIYで作っている最中の工房兼ギャラリーを訪れることになった今回。壁が取り払われ、これからの改装作業に使うであろう木材や道具が並べられた空間は、どんな場所になっていくのかまだ全く予想がつかない状態。2020年の完成を目指して鋭意制作中の工房を見ることができる、とても貴重な機会になりました。どのようなお店が誕生するのか、そして移動する工房が作品にどう影響していくのか、ひとりのファンとして心から楽しみにしています。

(手紙社 藤枝 梢)

出店者紹介,ジャンル:CRAFT

wakastudio 石川若彦

【wakastudioプロフィール】
陶芸作家・石川若彦さんがパートナー綾子さんと制作している陶器を送り出しています。1960年、彫刻家の長男として文京区本駒込に生まれた若彦さんは、1990年に益子町に移住したのをきっかけに陶芸を中心とした造形活動を開始。自ら作り上げた住居と工房、ギャラリーを拠点としています。轆轤(ろくろ)を使いはするけれど、手びねりでの造形が、やはり面白いと言います。wakastudioの仕事は“手でつくる”ことへの讃歌です。地元の陶器市では陶器だけでなく鳥も焼いて(一応焼きもの?)提供しているほどの若彦さん。その器は食との相性抜群。シンプルで洗いやすいお皿は私(担当:小池)の家でもヘビーローテションです。
Instagram:@wakastudio

【石川若彦の年表・YEARS】

【wakastudio・石川若彦さんインタビュー】
陶芸を生業にすること30年、人生の半分を益子で過ごしている石川若彦さん。それまでは、デザイナーとして東京都心での生活でした。そんな、今では想像し難くなりつつある若彦さんの過去から、今につながる足跡を辿ってみました。

デザインの世界へ

ーーー以前、若彦さんが最初はデザイナーとしてバリバリ働いていたと聞いて、同世代の陶芸家のイメージとは少し違うお洒落さというか、そういう雰囲気について妙に納得した記憶があります。芸術家の家に生まれたことは、やはり影響としてありますか?
石川:小さい頃はいつでも塑造用の粘土とかがあって捏ね回すことができたから、今の陶芸につながるところはあるけど、デザインについてはそうでもないかな。少年時代、父は西伊豆の方にアトリエを作って、主にそっちにいたというのもあって。ただ、小さい頃から絵を描くのは好きだった。成績も図工・美術と体育だけ5で、という具合。高校はちょっと不良な(笑)普通科男子高校だったけど、その後やっぱり興味があったので、デザインの専門学校に入った。結局そこには求めていたものがなくて、2か月で辞めてしまうんだけど。

若彦さんがかつて描いた絵より

ーーーそれから20歳くらいまではバイトをして過ごしていたんですね。その頃に綾子さんとも出会ったそうで。
石川:飲食店のバイトをしていてね。同棲して結婚して、今まで続いてる。当時も同じ店のバイトだったんだけど、2人でお店を任されるなんて時期もあった。

ーーーということは喫茶メニューも若彦さんが作って出していたんですね? 今日も美味しいペスカトーレ(?)をささっと作っていただきましたけど(まあ、美味しかったこと……)、喫茶店時代の賜物でしたか。
石川:もともと小さい頃から家でも料理作ってたからね。3食だけだとお腹空くから、間食にもう1食がっつりとセルフで(笑)。

ーーーバイト時代はまさに青春時代って感じですね。結果的には、年表に書いてあるアルバイト先が、デザインの世界へ導いてくれたという。
石川:青山にあった喫茶店でね。そこのママはモデル事務所もやっていたりと忙しい方だったんで、お店のことはかなり任せてもらっていたから、それに応えようととにかく一生懸命働いたよ。僕が絵とかイラストとか描いていて、デザインに興味があることを知ったママが、ご主人の経営していたデザイン会社に誘ってくれたんだよ。理解ある人でね。今思えば、そこでバイトをしてなければデザイン会社に入るという機会が訪れなかったかもしれないし、何か運命的な導きがあったのかもしれないね。

ーーーデザイナー生活はどうだったんですか?。
石川:もちろん最初は雑用からだったけど、“ものづくり”が仕事になった最初のステップになるね。今はデザイン業務って、Macを使って画面の中で構成して、デジタルの画像を取り込んで配置してっていうのが当たり前でしょ。当時はそんなもの普及していないから、平台の上でレイアウト切って、プリントされた写真を乗せて、フォントは写植屋さんに指定して用意してもらって、製版まで持っていく。それぞれ素材となるものには専門の制作会社があって、それを六本木の会社からバイクで銀座とか新橋とか、各所に回収しに行ったりしていたな。写真を自分で撮ることも多かった。そういう意味では、画面上で完結するような今のデザイン会社の業務に比べると“ものづくり”に近いものがあって、それなりに楽しんで仕事をしていたかな。

ーーー「手を動かす」感じがあったんですね。デザイナー時代の仕事で残っているものありませんか?
石川:ちょっと待ってね。……あ、これなんか、お洒落で良いでしょ?

ーーーかっこいい線ですね。80年代のイラストとは思えないほど、全然色褪せてませんね!
石川:……あとは、こういうレタリング的なものもよくやっていて。博覧会の大手企業ブースに使われたものとかもあるよ。

ーーーこれもモダンだけど水墨っぽい雰囲気も重なって、不思議な魅力がありますね。
石川:この頃は、あえて小さめに文字を描いて、拡大してたんだ。そうすると、滲みの部分の荒さがよく出てきて、味わい深くなるでしょ。

自分が乗っていた車を主人公にした漫画風イラストも

益子への移住、陶芸家へ

ーーー大手広告代理店に移って順調にキャリアを重ねていくかと思いきや、5年経たずにサラリーマン生活をやめて益子に移住してしまうんですね! まだ世間がバブル期の中、まさに転機。
石川:Macの導入でデザインの仕事から手触りが無くなってしまうと思ったから、すっぱりと業界から離れる気持ちになった。2番目の姉が益子の陶芸家のところに嫁いでいて縁があって、益子という土地も気に入っていたから、とりあえず移住して何か“手仕事”をしたいなと思って。引っ越しも自力で何回かに分けて荷物を運んでね。サラリーマン最後の2か月は、益子から虎ノ門まで通っていたよ。5時に上がって上野で電車待ちながらビール飲んで(笑)。

ーーー人生が動いているっていう感じがしますね。引っ越しすらもイベントのようで。
石川:引っ越しは実は慣れたもので、デザイナー時代は都内で10回は引っ越ししたかな。おかげであまりお金が貯まらなかった(笑)。

ーーー急激な生活の変化にすぐ馴染んだんですか?
石川:移住して半年くらいはデザインの仕事も受けて、半分はデザイン、半分はものづくり、という生活だった。「陶芸をやろう」という思いは無かったんだけど、益子という土地柄と小さい頃粘土に親しんでいたということもあって、作陶を始めたっていう流れかな。

ーーー陶芸は誰かに師事されたんですか?
石川:いや、独学だよ。粘土の扱いは問題なかったので。あと工程でわからないことがあったら、姉のいる窯に行って聞くことができたしね。最初は同世代で同じくものづくりをしている作家のKINTA氏と共同でギャラリーというかアトリエを作ってそこで制作していた。

ーーーKINTAさんとは移住当初からのお付き合いなんですね。「道の駅ましこ」にも大きな作品が飾ってありました。
石川:その「WAKA・KIN・STUDIO」時代、『DIME』にインディーズ益子作家として取り上げられたことがあって……あ、これだ。

ーーー良い笑顔! 新聞広告にも載ったんですね!
石川:なぜか僕の写真がね。この広告はカラーで電車の中吊りにもなったから、電車で見ると妙な気持ちになったよ(笑)。それから、アトリエじゃなくて当時の住居の方も雑誌に載ったことがあったな。本当に驚くべき家賃で、1万円台。確か今も家賃変わっていないはず。自由にリノベーションさせてくれたから、増築して(今も現在の住居で綾子さんが子どもたちに開いている)文庫のスペースを作ったり。

益子での最初の住居が取り上げられた誌面

wakastudioの完成

ーーー益子に根を張ることになって、借家ではなく現在のwakastudioを作ることにしたきっかけはあったんですか?
石川:この場所のすぐ向かいの土地に旧知のアートディレクターの方が住んでいて、訪ねているうちに、この辺がとても良い場所だなと思ってきたんだよね。どうせなら住居にアトリエもギャラリーも併設できたらと考えて、行動に移した。山林だったんだけど、地主さんに話を通して土地を得て。最初は伐採から。開けたら、20tのショベルカーを借りてきて整地。そこに柱を建ててもらった。柱だけは、プロの大工さんでないとなかなか難しい。柱さえ建ってしまえば、あとはセルフで壁とか床とか屋根とか、内装とか進めていけたよ。KINTAをはじめ益子の仲間たちにも随分助けてもらった。

伐採時の様子

ーーー柱以外は自分たちで!
石川:おおまかな設計というか、建物のデザインも僕がやってね。最初に作ったのはアトリエで、伐採と整地含めて2か月くらいでできたかな。その後はギャラリーで2週間くらい。しばらくは前の住居から通って制作していた。最後の母屋は天井まで6mと大きかったんで、さすがにもう少し時間かかったけど。高所でも自分で色を塗ったよ。

wakastudio:手前がギャラリー、奥がアトリエ
母屋

ーーーこれは訪問して取材したくもなりますよ。都会にいる人にとっては夢の住まいだと思います。完成して16年以上経っていると思いますが、益子では知らない人いないんじゃないですか?
石川:どうだろうね。年月が経つのは本当にはやい。比較的淡々とした生業だから、余計にそう感じるのかも。気がつけば、3人姉がいるんだけど、みんな益子とか笠間とかこっちの方に住んでるんだよね。親も最後は益子に引っ越してきたから、益子との縁はもうかなり深くなった。

ーーー還暦は意識しますか?
石川:いや、全然。事件の犯人が60代だったりするのを見ると「こんな年寄りがまったく」なんて言ってしまうし(笑)。自分とそう変わらないってあまり思えないな。これからも変わらず淡々と陶芸家として楽しんでいこうと思うよ。

ーーーやっぱり若彦さんは「陶芸家」なんですね。
石川:それはそうだよ。でもたまに遊びで絵を描いたり、立体作品作ったりして、それはそれで面白いよ。

今年「starnet ZONE」で開催された展覧会に出品した立体作品

《インタビューを終えて》
都会のデザイナーから転身して、郊外の陶芸家に。家もアトリエも自分たちで作ってしまう。それでいてスタイリッシュ。もみじ市ファンにとっては、思い描く理想の作り手の姿なのではないでしょうか。その根幹には、「手仕事をしたい」「ものづくりをしたい」という純粋な情熱がありました。いつでも若々しい石川夫妻は、益子をはじめとした若手作家たちの憧れでもあります。これからももみじ市に年齢を忘れて出店し続けて欲しい、そう思わずにはいられませんでした。

(手紙社 小池伊欧里)