出店者紹介,ジャンル:CRAFT

手作り石鹸 Savon de Siesta

【手作り石鹸 Savon de Siestaプロフィール】
北海道・札幌で、道産の素材を使い“ココロがホッとする”スキンケアを作る。一つひとつ手作りされる石鹸は、「今日もお疲れさま。」と声をかけてくれるかのように、優しく肌を包み込んでくれます。「コールドプロセス製法」によってゆっくり時間をかけて作られるため、たっぷりと保湿成分を含み、肌がつっぱる感触もありません。元々は、代表である附柴彩子さんが肌荒れに悩んだことから、石鹸作りを始めたのだそう。私(担当:南)も使い始めてから1年、日々を癒してくれる欠かせない一品となっています。
https://at-siesta.com
Instagram:@savondesiesta
Facebook:https://www.facebook.com/savondesiesta

【手作り石鹸 Savon de Siestaの年表・YEARS】

【手作り石鹸 Savon de Siesta・附柴彩子さんインタビュー】

もみじ市では唯一、化粧品を扱うSavon de Siesta。つるんと滑らかで、しっとりとした質感の石鹸は、まるでバターやお菓子のようにも見えますが、代表・附柴彩子さんが石鹸作りを始めたきっかけは、“お菓子作り”にあったそう。多くの人の心に寄り添う石鹸誕生の物語を、一緒に見て行きましょう。

お菓子作りが好きな少女は、父に憧れ化学の道へ

ーーー現在、北海道の札幌を拠点に活動されていますが、北海道に移り住んだきっかけはなんだったのでしょうか?
附柴:父が北大(北海道大学)出身なので、家族旅行で北海道を訪れた際に北大のキャンパスを散歩しました。緑がいっぱいで本当に綺麗で。もう「ここしかない!」と思いました。その頃から、北大に行こうと決めていましたね。それに、研究者になりたいなとも思っていたんです。私にとって研究者だった父は憧れの存在で、父のようになりたいなぁと思っていました。

ーーー元々お菓子作りが趣味とのことですが、お菓子の道は選ばれなかったのですね。
附柴:そうですね。最初は製菓の学校に行くか、化学の勉強をするか悩みました。それと歴史も好きだったので、考古学の道も迷ったんですが、父の影響が自分の中で大きくて化学の道に進みました。でも、お菓子作りは大学生になっても続けていたんですよ。週に一回はゼミに持って行って、みんなと食べたりするのが楽しくて。パウンドケーキとか、混ぜて焼くだけのシンプルなケーキを作るのが好きでした。

ーーーそもそも、お菓子作りを始めたきっかけはなんだったのでしょうか?
附柴:母がお菓子作りをする人で、それを手伝っているうちに好きになったんですよね。道具や材料が家にあったので、気付いたら自分でも作るようになっていました。お誕生日会には母がレモンケーキをたくさん焼いてくれて、来てくれた友達それぞれがデコレーションを楽しんだりして。そんな環境だったので、お菓子作りに関しては良い思い出しかないんです。小さい頃も楽しかったし、学生生活の中でも周りのみんなが喜んでくれたから。ものづくりで誰かを笑顔にすることの原体験になっているかもしれません。

ーーー充実の大学4年間を経て迎えた大学院で、研究者の道へ進まれるか悩まれていますが、なぜ向いていないと思ったのですか?
附柴:化学の研究って、狭い範囲のことを針の穴でつつくように、黙々と取り組んで、新しい何かを見つけるんですよ。それはそれで楽しかったんですけど、重箱の隅をつついているような気持ちになってきてしまって。もっと広い目で見ることができたら良かったんですけど、当時の私にはそこまでの余裕が無くて。研究は人とのコミュニケーションがあまりないなぁと思ったんですよね。一人でX線室に籠って、採取したデータを分析にかけたりするんですけど、それがだんだん辛くなってきてしまったんです。もっと人と話を<したいなぁと思うようになって。学生の時点でそう思っているということは、仕事として向いてないんじゃないかなと思ったんですよね。実験自体は好きだったんですが、自分が良いと思ったものを伝えたりすることも好きだったので、もう少し人と接する機会の多い仕事をしたいと思ってしまいました(笑)。

ーーーそれで進路を悩まれるんですね。
附柴:当時は化学を専攻したことを「ちょっと間違ったかなぁ」と思いました。もしお菓子を作る学校に行ってたら、もっと人と接することができたんじゃないかって。それで、製菓学校の資料を取り寄せたりもしましたが、今までやってきたことも無駄にしたくないなぁという思いもありました。そんなモヤモヤした気持ちで研究を続けても良い結果は出ないなと思い、一度リセットするために大学を休学したんです。

ーーーそれから始められたのが、カフェのアルバイトだったというわけですね。
附柴:そうです。お菓子に関わる仕事もしてみたかったので、カフェを選びました。そこでは接客のみで、お菓子作りはしなかったんですけど、ギャラリーが併設されていたので、運営の手伝いをさせてもらって。大学の中では出会わない人たちや作家さんに出会う機会があって、世の中にはこんな自由な生き方があるんだと思いました。それが、自分でものを作ることを始めるきっかけにもなったんです。ちなみに、石鹸屋として独立した頃、そのカフェの空きスペースをお借りしていたこともあったんです。石鹸を試作する工房がなくて、マスターに相談したら快く貸してくださいました。

お菓子作りとそっくりだった石鹸作り

ーーー休学中に、もう1つの転機である石鹸作りとの出会いが訪れるのですね。
附柴:お菓子作りの本を買うために本屋さんへよく通っていたのですが、たまたま隣に石鹸作りの本があったので、試しに石鹸を作ってみました。そしたら、材料を測って、順番に混ぜて、固めていくという作業が、お菓子作りや化学の実験の工程にすごく似ていて、楽しかったんです。人生に迷っていた私は、「やりたい仕事を見つけた」と思いました。

ーーーそこで石鹸作りに目覚めたのですね! その頃、ご自身も肌荒れに悩んでいたそうですね。
附柴:そうなんです。化粧品にかぶれたんですよ。高価なものをラインで揃えて使ったら、見事にかぶれてしまって。それをきっかけに、成分表示を見るようになったのですが、肌に本当に必要な成分以外にも色々含まれていることを知りました。それで、もっとシンプルなものを使いたいと思うようになって、石鹸を作り始めましたね。

ーーーちなみに、お菓子作りを仕事にしようとは思わなかったのですか?
附柴:悩んだ時期もありましたが、お菓子作りを仕事にするのはすごく難しいと思ったんです。すでに仕事にされている方も大勢いらっしゃるし、体力仕事なので。パン屋も考えたんですけど、粉も重いなぁと(笑)。出産やその後の人生を考えたときに、どうも踏ん切りがつかなくて。石鹸作りなら、今までやってきた化学の知識も活かせるし、作った石鹸で誰かに喜んでもらうこともできるし、これだなと思いました。

製薬会社への就職、そして起業へ

ーーーその後、すぐに石鹸作りの仕事は始めず、一度就職されたのですね。
附柴:石鹸屋さんになることを決めたものの、どうやって始めたら良いか分からなくて。石鹸屋さんで働くのか、自ら起業するのか。そこでひとまず石鹸に関係するような、化粧品や製薬系の業界を受けました。最終的には製薬系に受かったんですけど、京都勤務になってしまったんです。

ーーー大好きな北海道から離れることになってしまったのですね!
附柴:最初は北海道勤務を希望して、内定をいただいたのですが、大学院の卒業が1年早まったんです。復帰して研究を再開したら、データがたくさん取れて、論文も書けて、卒業に必要なものが揃ってしまったんですよ。教授に呼び出されて「1年で卒業できるよ」と言われたときはびっくりしましたが、まぁそれなら早く社会に出ようと思い、会社に相談して1年早く就職できることになりました。でも、勤務地が西日本だけだったんです。他の新入社員と配属先の話をしたときに、「北海道は無いよ」って言われたんですよ。どうやらその会社は、東日本と西日本の勤務地に、1年ごとに交代で採用していたそうです。そこでもまたびっくりして、人事に確認したら伝え忘れてたみたいで。最終的に京都での勤務が決まりましたが、衝撃続きでした(笑)。

ーーー波乱万丈な時期だったのですね(笑)。
附柴:ちょうどその頃、私の主人も波乱万丈な時期でした。同級生だった主人は、修士論文も終わり、卒業間近に念願の成果が出たんです。そしたら、就職せず、研究を続けたくなってしまったようなんです(笑)。そこで内定していた会社に気持ちを伝えたところ、社内の研究員になることができて、大学院に残ることができて。1年後にはその会社の援助を受けて、起業することになりました。

ーーーお互いに、怒涛の1年間でしたね。
附柴:本当に。でも、近くで起業の流れを見ることができてラッキーでした。その後、結婚のタイミングで北海道に戻り、Savon de Siestaを始めたのが2005年のことですね。

ーーー附柴さんご自身は、就職されてみてどうでしたか?
附柴:製薬会社での仕事はすごくハードでしたが、その間もずっと石鹸作りは続けていました。自分で作った石鹸を使うと、すごく気持ちが安らいだんです。なので、ただの石鹸ではなく、頑張る人にホッとする瞬間をくれるような石鹸を作りたいと思うようになりました。

ーーー私も仕事から帰って来て、Savon de Siestaさんの石鹸を使うとすごく癒されます。ご自身もそうだったのですね。
附柴:たぶんシエスタのことは、私が一番好きだと思います。ブランドを始めた当初から、日常の中で元気をくれたり、気分転換になったり、そういう気持ちで使ってくれる方は多いですね。

念願の石鹸屋・Savon de Siestaをスタート

ーーーSavon de Siestaを始めた当初は、WEBショップと、お店の展示会での販売だったとありますが、どのようにして展開されたのですか?
附柴:色んなところへ、行商みたいに足を運んでいました。お店での展示会は、私から売り込みに行ったこともあります。札幌市には、市が運営している「札幌スタイル」という認証制度があって、認証された商品は積極的に紹介してもらえるようになるんです。私もブランドを立ち上げてすぐ応募して、採用してもらえたおかげで百貨店への出店も叶いました。

ーーー2009年、4つ目の転機として実店舗のオープンを挙げられていますが、オープンまでの経緯を聞かせてください。
附柴:旅をするようにあちこちで販売しているうちに、北海道のイベントに参加させていただけるようになりました。そこでお客さまから、「日用品だから、いつでも手に取って買える場所があったらいいのに」と言われるようになったんです。私もお客さまとゆっくり会話できる場所があったらいいなと思っていたので、スペース115の1室を借りました。一人でやっていたので、無理せず週3日のオープンからスタートしました。

ーーー石鹸作りをしながらショップを運営されていたのですか?
附柴:製造は、主人の会社にお願いしていました。事業契約をして、私はレシピを提供して、主人の会社から仕入れるという形にしていたんですが、やっぱり自分で作りたくなってしまって(笑)。小さかったけれど、スペース115のビルの5階に工房を作りました。でも、お店とは別の階に工房があったので、お客さまに、ここで石鹸を作っていることを伝えても、みんな全然ピンとこないみたいで。「石鹸って作れるの?」と聞かれることも増え、これは製造過程を見せられる場所を作ったほうがいいなと思い、現在の店舗を作りました。

ーーーそれで現在のお店の形が出来上がったんですね。やはりお客さまも、製造の様子が見えると、安心して使えるのでしょうか。
附柴:そうですね、安心感に繋がりますし、興味を持ってくれますね。男性の方が工房を食い入るように見ることが多いです。あとは、子どもたちがすごく見てくれるんですよね。「大きくなったら石鹸屋になりたい」って言ってくれる子もいたりして。私自身、仕事に悩んだ経験があるので、子どもたちがもっと自由に仕事を選べるお手伝いができたらいいなぁって思うんです。今度、アートスクールとコラボすることになったんですよ。私の子どもがそこに通っていて、スクールの先生と「一緒に何かできたらいいね」って話をしていて、子どもたちがシエスタラボに見学に来ることになりました。それで、石鹸のパッケージをデザインする授業をするんです。デザインされたパッケージは、シエスタで包んで、販売をするところまでやるんですよ。子どもたちに向けて何かやりたいなと思っていたらそういうお話をいただけたので、すごく楽しみです。

店内に隣接する工房
点と線模様製作所・岡理恵子さんのイラストが壁に描かれています
一つひとつ手作業でカットされる石鹸
大きなバターのようでちょっと美味しそうです

憧れだったもみじ市

ーーーもみじ市に初めて出店されたのは2013年。今年で7度目の出店ですね!
附柴:もう、夢のもみじ市だったんですよ。出店できるまで、お客さんとしても行かないと決めていて、毎年やりたいことリストに「もみじ市に出る」って書いていました(笑)。2007年に札幌で開催した「旅するもみじ市」で初めて手紙社さんのイベントに出店させてもらって、その後、森のカフェフェスでお声がけいただいて、2013年の4月に洋子さん(手紙社・副代表)から電話がかかってきて。「もみじ市に出ませんか?」って聞かれたときのことは、今でも覚えています。キャンドル作家のnuriさんと仲が良いのですが、声をかけていただく前に京都で一緒にご飯を食べたんです。nuriさんがもみじ市に出店し始めた頃で、「夢のもみじ市なんだよね」とお話していました。

ーーーそんなに憧れを持ってくださっているなんて、こちらも背筋が伸びる思いです。もみじ市は屋外での出店ですが、大変なことはありますか?
附柴:私たちはそこまで大変な思いをしたことはなくて、むしろボランティアさんへの感謝しかないです。初めて出店した回が横殴りの大雨で、ボランティアスタッフの皆さんが「大丈夫ですか?」って気にかけてくださって、ありがたかったです。

ーーー事務局も、ボランティアスタッフさんにはすごく助けられています。
附柴:ただ、雨が降った後の河川敷は、リアカーが全く動かなくなってしまうので大変です。あと、ペース配分を間違えて、搬入日に気合いを入れすぎてしまうと、当日の体力が無くなってしまうので気を付けます(笑)。

「手作り石鹸 Savon de Siesta」のこれから

ーーー今後、Savon de Siestaをどんなお店にしていきたいですか?
附柴:やっぱり、基本は石鹸屋なんです。たまに作家さんの個展を開催したりもしますが、やっぱりシエスタは石鹸屋なんだなということを、最近強く思うようになりました。もっと、石鹸作りをストイックにやっていきたいなって。原料の選び方だったり、農家さんとのやり取りだったり。私もスタッフも心から好きだと思えて、お客さまにも喜んでもらえるものを作り続けたいなと思います。今はまず、そのための環境を作ろうとしていますね。スタッフが増えるほど、意識を統一したり、個々にやりがいを感じてもらうことがなかなか難しくなると思うんです。今は忙しくて、大変さばかり感じてしまっていると思うんですけど、そこを変えていきたいですね。

でも先日、Savon de Siestaの14周年を記念して、うちのスタッフがSNSに自分たちの写真をアップしてくれていたんですけど、みんなすっごくいい笑顔だったんです。それにはすごく感動して、みんなが居てくれて良かったなぁと、心から思いました。なので、みんながSavon de Siestaを愛せる場所を作っていきたいなと思っています。

14周年を記念した石鹸オブジェも登場します!
ぜひ一緒に写真を撮ってくださいね

《インタビューを終えて》
Savon de Siestaの石鹸で顔を洗うと、心がほぐれていくのが分かります。そして、明日も頑張る勇気をもらえます。他のスキンケアでは感じられないこの感覚は何なのだろうと、ずっと不思議でした。ですがこの日、キラキラとした表情で話す附柴さんを見て、その理由が分かりました。この石鹸たちは、心を込めて選ばれた素材のエネルギー、そして、附柴さんの思いに満ちているからなのだと。

(手紙社 南 怜花)

もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:ILLUST&DESIGN

高旗将雄

【高旗将雄プロフィール】
愛知県生まれ、神奈川県在住のイラストレーター。もみじ市をはじめ、蚤の市や紙博など、手紙社イベントには欠かせない存在の高旗さん。高旗さんの描く暮らしの道具や動物たちは、ゆるりとした空気感と思わずクスッと笑ってしまうようなユーモアを持ち合わせています。また、なんといってもそのフォルムや表情に至るまで、どれもがのびのびと表現され、愛くるしさがたまりません。そんなイラストを描く高旗さん、頭の中のアイディアの泉はいつも溢れんばかりに満ちています。紙ものにとどまらず、布ものやブローチ、食器類など、暮らしに寄り添う作品が盛りだくさん。そんな高旗さんの作品を手にすると、ホッと癒され、気負わず素直な気持ちになれるのです。ぜひ、高旗将雄ワールドをお楽しみに。
http://masaox2006.xxxxxxxx.jp

【高旗将雄の年表・YEARS】

【高旗将雄さんインタビュー】
手紙社イベントには欠かせない存在の高旗将雄さん。イラストを描き始めたのは、なんと大学生になってからなのだとか! 高旗さんの学生時代から手紙社との出会いなど、担当・高橋美穂がお話を伺ってきました。

ヴィレヴァンで育ったようなものなんです

ーーー大学ではグラフィックデザインを学ばれていたんですね。美術の世界に興味を持ったのはなぜですか?
高旗:美術というより、子どもの頃から映画とかCMが好きだったんですよね。「広告批評」という月刊誌があって、休刊になるまでずっと買い続けていました。そこにCMだけじゃなく広告も載っていて、だんだんグラフィックの方に興味が湧いていったというかんじです。ちゃんと進路を考えたのは高校生の時ですけどね。

ーーー「広告批評」はいつ頃から読んでいたのですか?
高旗:中学生くらいですかね。名古屋港にヴィレッジヴァンガードがあって、行くたびにそこで買っていました。東京の本屋だと、こういった本やデザイン系の本とかも普通に置いているけど、僕の地元はそうではなかったので、ヴィレヴァンが文化的なものの全てでしたね。ヴィレヴァンで育ったようなものなんです。昔は今よりもっと本屋寄りでしたし、海外小説とかもヴィレヴァンで覚えました。

生活=スマブラorシルクスクリーンの大学時代

ーーー大学時代は漫画研究部だったのですね。ちなみに、絵は昔から描いていたのですか?
高旗:昔は全然描いていなかったです。絵を描き始めたのは大学に入学してからでした。

ーーーえっ! そうなんですね。とても意外です。
高旗:普通は大学受験の前に美術系の予備校に行ったりするんですが、僕が入学したグラフィックデザイン科は当時、学力テストと小論文で入れたんですよ。なので、予備校にも行かなかったんですよね。

ーーー漫画研究部はどんな経緯で入部したのですか?
高旗:それが、通りすがりでうっかり、なんですよね。もともとは自転車部に入ろうと思っていたんです。自転車部の説明会に向かっていたらその途中で漫研の説明会をやっていて、そのまま入部してしまいました。漫研ではゲームばっかりやっていましたね。

ーーー通りすがり(笑)! 自転車部は入らなかったんですか?
高旗:入りませんでした(笑)。今でも自転車には乗りますし整備もしますけどね。昔は好きで自転車1台作りましたもん。自転車のフレームがあったので、買ってきたパーツを組み合わせる感じです。

ーーー自転車を作る(笑)!?
高旗:正直、性能は完成形で売っているものの方が良いと思いますけど、それだと高いですからね。良い自転車を買おうと思うと高いけど、自分で作れば多少安いというか。初めてのパソコンも自分で作りましたね。こういうのって、プラモデルを作る感覚とあんまり変わらないんですよ。とにかくお金がないので、「自分で作ってしまえ」と色々作っていましたね。

ーーー「自分で作ってしまえ」という発想に至る点が、もう根っからの作家気質ですね。シルクスクリーンを始められたのは、何か理由があるのでしょうか?
高旗:大学では印刷機は使わせてもらえなかったんですが、シルクスクリーンの部屋はタダで使えたんです。それで、写真とかよりはイラストの方がシルクスクリーンとの相性が良いので、イラストを描くようになりました。

ーーー当時はどのような作品を作っていましたか?
高旗:紙ベースのものが多かったです。学祭の時にはバッグを作って売ったりもしていましたね。

ーーー大学院を卒業してからはずっと作家業一本ですか?
高旗:そうですね。特に企業に就職もしていないですし。自分の周りの漫研の人たちが全然就職しなかったので、就職しなくても頑張ればなんとかなるかなと思ったんです。グラフィック科の人は就職していましたし、僕も変わらず広告は好きだし、そちらが嫌になったわけでもないんですけどね。かと言って当時「絶対作家になる!」という強い気持ちがあったわけでもなかったのですが。

ーーーそうだったのですね。一般的には就職した方が楽だと思ったりはしなかったのですか? 作家一本でやっていこうと思えるのは、本当にすごいなぁと思います。
高旗:就職した方が安定しますからね。僕は基本的に“人に流されてやる”ということが多いんですよ。はじめはグラフィック科の中でも広告をちゃんとやっていたので、自分で言うのもなんですが、そこそこ成績はいい方だったと思うんです。漫研がよくなかったですね、みんなハナから働く気がない奴らばかりだったんで(笑)。あとはコミティアなどのイベントにも出て、普段から学校の課題以外にも自分で何かを作るという環境下に置かれていたので、作って売るということがあたり前になっていました。

ーーー学生の頃から作っていて、今も販売している作品はありますか?
高旗:生産が追いつかなくなったので今はもう手紙社さんにお願いしていますけど、「塩」と「しょうゆ」のトートバッグは学生のころ1つ1つ手刷りで作っていたのが始まりなので、販売してから長いこと経っていますね。

「塩」と「しょうゆ」のトートバッグ

ーーーあのトートバッグ、かなりのロングセラー商品なのですね。他にも、ずっと出している商品はありますか?
高旗:そんなにはないですね。いちど作って、売り切ったら終わりということが多いです。いちどに結構な数を作るので、それを売り切ってしまえば欲しい人には行き渡ったかなと思いますし、同じものを作るより、新しいものを作れるなら、そっちの方がいいかなと思っています。

「土星」が引き寄せた出会い

ーーー高旗さんと手紙社の出会いは1冊の本がきっかけだったのですね。「土星」とはどんな本だったのでしょうか?
高旗:僕ともうひとり、漫画を書いていた人とで企画をしました。pixivで描き手を募集して、はじめはグループ展をしていました。「土星」はそうやって集まったメンバーで毎回テーマを決めて、各々がイラストと文章を作る、というリトルプレスです。2010年に初めて作って、年2回のペースで発刊していました。結局2年くらいしかやらなかったんですけど、手紙社の代表の北島さんが本の対談の中で「土星」を紹介してくれたんですよね。

「土星」1号

ーーーその後、当時の手紙舎調布パルコ店で展示をされていますが、どういった経緯で展示をすることになったのでしょうか?
高旗:僕が北島さんに挨拶をしに行ったんです。本の編集をしていた方から「対談の中で『土星』のことを載せていいですか?」という連絡が来たので、それなら挨拶しに行こうかなと。その時に作っていたものを一緒に持って行って見てもらって、展示が決まって、という流れでした。

ーーー手紙舎調布パルコ店での展示はどういったものでしたか?
高旗:学生のころからずっとマッチ箱をシルクスクリーンで作っていたので、それをメインに展示していました。今作っているものとは少し違うんですが、ブローチもこの展示に合わせて初めて作りましたね。この展示の翌年にはもみじ市にも出店するようになって、今に至ります。

シルクスクリーンで作ったマッチ箱

もみじ市はあっという間の2日間

ーーーもみじ市には2013年の「カラフル」から出店いただいておりますね。特に印象的だったもみじ市はありますか?
高旗:もみじ市って実はあんまり覚えてないんですよね。それくらいバタバタしているというか、あっという間というか。開催2日間とも晴れた年が1回だけあったと思うんですけど、あれはいつのもみじ市だったかな、とかちょっと思い出せないんですよね。記憶も色々混じってしまって。

ーーー高旗さんといえば、楽しいワークショップも印象的ですよね。今までのワークショップのお話を聞かせていただけますか?
高旗:確か初めて東京蚤の市に出た年は、手紙社の方から「買ったものを持って帰るためのカバンが欲しいから、トートバッグをシルクスクリーンで刷る、というのはどうでしょう」と提案されてやりました。その後は、もみじ市以外でのワークショップも含めると、シルクスクリーンでTシャツや手ぬぐいを作ったり、似顔絵を書いたり、モビールや驚き盤を作ったこともありました。2017年の「ROUND」のもみじ市では、缶詰を作れる機械を買ったので、好きなものを入れて自分でオリジナルの缶詰を作る、というワークショップもやったんですが、これはちょっと不発でしたね。cafeゴリョウさんとのコラボで作った「momiji缶」は上手くいったので、缶詰は最初から中身が入っていてこそなんだなと思いました。

ーーー本当にたくさんのワークショップをしてくださっていますね! 聞いているだけでもワクワクしてしまいます。イベントで時々どーんと登場するドローイングガチャも、目を引きますよね。
高旗:ドローイングガチャは去年のもみじ市で初めてやりました。もうちょっと、仕組みをどうにかしたいなとは思っているんですけど、難しくて。

ドローイングガチャ

ーーー日々進化しているのですね。今年はどんなワークショップを予定していますか?
高旗:どうしましょうね(笑)。ちょっとまだ未定なんですが、今年もドローイングガチャをやりたいかな、と思っています。

ーーー詳細情報、お待ちしてますね。今年のテーマが「YEARS」ということで、高旗さんの今までのお話を伺ってきましたが、これからやりたいことはありますか?
高旗:やりたいことはあると言えばあるんですが、きっとあまり人に言うもんじゃないですよね。イラストの仕事って、資格をとるものでもないし、年に仕事が1本あるだけでも「イラストレーターです」と名乗れますが、年1本じゃ生活はできない。コンスタントに毎月毎月仕事がないとやっていけないんですけど、何かものすごい大ヒットがあって、急に仕事がガッと増えるというものでもないですから。やっぱり少しずつの積み重ねで仕事をする機会が増えていくものだと思うので、これからも“続けていくこと”が大事だなと思います。

《インタビューを終えて》
高旗さんの生み出す作品を手に取ったり、ワークショップに参加されているお客さんは、皆さん笑顔が輝いているのが印象的です。それはきっと、高旗さんの作品が「素敵!」、「可愛い!」というのはもちろんのこと、高旗さんご自身が“ワクワクする仕組みを生み出す天才”だからなのではないかと、インタビューを通して感じました。インタビュー中、「僕は基本的に流されやすいタイプなので」と度々口にしていた高旗さん。もみじ市当日、「こんなの楽しそう!」「こんなのあったらいいな」など、ぜひ高旗さんとお話ししてみてください。もしかしたら、次に高旗さんの頭の中から飛び出す“ワクワク”の、小さな種となるかもしれません。

(手紙社 高橋美穂)

出店者紹介,ジャンル:BREAD

三角屋根 パンとコーヒー

【三角屋根 パンとコーヒープロフィール】
「毎日食べていただけるようなシンプルなパンとコーヒーを」というコンセプトのもと、中澤一道(かずみち)さん、裕佳(ゆか)さん夫婦が香り高いパンとコーヒーを提供する。神奈川・葉山に立つ一軒家のお店は、その名の通り、まるで絵本の中に登場しそうな三角型の屋根。併設のカフェには日当たりの良い庭があり、パンとコーヒーをのんびりと楽しめて嬉しい。パンと焼き菓子は、選りすぐりの国産の小麦を使用し、裕佳さんが製造。またコーヒーは、ドイツ製の焙煎機で旦那さんの一道さんが丁寧に焙煎。初出店となる今回、どんな幸せを届けてくれるのか、楽しみでならない。

http://sankaku-yane.net
Instagram:@sankaku.yane

【商品カタログ予習帳】

続きを読む

出店者紹介,ジャンル:CRAFT

TOKIIRO

【TOKIIRO プロフィール】
10年前から千葉・浦安にアトリエを構え、イベント出店やワークショップなどを通じ、多肉植物のある暮らしを提案し続けているTOKIIRO。ぷっくりと膨らんだ葉やうねりのある茎など、神秘的な姿の植物を器の上に絵を描くように植えていきます。現在、NHK「趣味の園芸」の講師を務めたりと多岐に渡り活動中。季(とき)の色を感じる大小様々な多肉植物がひとつの器にアレンジされ、その姿に惚れ惚れとしてしまうことでしょう。
http://www.tokiiro.com

【TOKIIROの年表・YEARS】

【TOKIIROさんインタビュー】
最近では手軽に購入できるようになった多肉植物。ぷっくりと可愛い葉や、個性的な形の植物に癒されている方も多いはず。TOKIIRO・近藤義展さんの作る多肉の寄せ植えは、小さな鉢植えの上に何種類もの品種の植物たちが、絶妙なバランスを取りながら共存しています。実は多肉の道へと至るまで一筋縄ではいかない体験を持つ近藤さんに、浦安のアトリエでお話をお聞きしました。

好きなものに没頭していた学生時代

ーーー近藤さんは昔から植物がお好きだったのですか?
近藤:小さい頃からミュージシャンになるのが夢で、大学に行っても音楽に明け暮れた日々を送っていました。パートはキーボードで曲作りも自分たちでして、プロの道へと突き進んでいきました。

ーーー音楽の道に進んでいたんですね
近藤:プロになってしばらくして気がつきました。どんなに努力しても1%の才能を持つ人たちには敵わないって。あまり他の人たちがどんな音楽を作っているのか、流行りはどういうのかなど、周りのことは気にしない性格だったのですが、ある時から曲を作ることができなくなって、「あぁ、自分には才能がないんだな」って悟って、ほどなくして違うことをしようとなりました。

ーーーなるほど。それで音楽から植物の道へ……。
近藤:いや、今やっている多肉との出会いは結構最近なんです(笑)。音楽を辞めてからは、自分で事業を立ち上げたりして今とは全然関係のない仕事をやっていましたよ。自分の価値は自分でしか測れないと思っていた時期があって、どこかの会社に入ってお給料をもらっても、それは本当に自分のスキルに対して正当なものなのか、と疑問を持っていたので、自分だけでできる仕事をしようと移っていきました。

個人事業とうまくいかない日々

ーーー個人事業をいきなりはじめたのですね。そのときはどんなことをされていたのですか?
近藤:まずは事業を始めるにあたって、帝王学や成功哲学とか、仕事でどうやったらちゃんとお金を稼ぐことができるかを徹底的に学びました。そこで見つけたのが、“まだ世には出ていない未来の製品”を作っているメーカーの代理店の仕事です。今で言うiPhoneのような、その当時はまだ使い方もわからないような物を作っている夢のような会社がありました。そういった物を扱って販売していたのですが、何と言っても誰も使ったことがない、前例のないものを売るわけだから、買ってもらうのは大変でした。

ーーーたしかに、未知の道具に対して最初は怪しんでしまいますよね。
近藤:なので、物を売ると言うよりも、“自分”を売る、という表現のほうが正しいかもしれません。まずは近藤義展というひとりの人間を信用してもらい、この人が勧めるなら間違いないと思ってくれるアプローチをしていきました。こういう時に学んでいた帝王学とかが活きてきましたね。

ーーー夢の道具を売り歩く商社マン、と言ったところでしょうか。かっこいいですね。
近藤:でも、長くは続きませんでした。プライドだけが高くなって、間違った方向に進んでいても自分の考え方を変えられなくなっていったんです。「かっこよくいたい」、そう考えてしまって、今考えれば全然かっこよくないのに、それが正解だって思ってしまっていて。先輩たちからの忠告やアドバイスもたくさんもらっていたのですが、受け入れられずにいました。冷静になって思い返せば、大事なことをたくさん言われていましたよ。それで、事業がうまくいかなくなって、借金だけが増えて生きていくのさえ辛くなっていきました。

ーーーそこから今に至るまでどんな心境の変化があったのでしょうか。
近藤:その頃は家賃を払うのもままならなくて。でも、先の見えない生活でも猫は飼っていたのですが、その子のご飯は「何としても食べさせなければ」と思っていたんですよ、自分が食べるのも精一杯だったのに。だけど本当に仕事も無くなり、何もすることがない日々が続いて、もう無理だと人生の終わりを悟りかけた時、猫の「にゃー」って鳴き声を聞いてハッとしたんです。自分が居なくなったらこの子はどうやって生きていくのだろうと。この時から死に物狂いで何でもやるようになりました。

ーーー飼っていた猫に救われたのですね。
近藤:そうですね。それからは知り合いからの紹介で、地デジアンテナの交換の仕事をはじめました。まだ地デジって何? と思われている時期で、中々理解を得られない方にも根気強く説明したりして、アンテナの取り付けなど行っていました。他人と協力して何かを成し遂げる、ということもこの時が初めてでした。

ーーーずっとひとりだった近藤さんの仕事に、他の方が関わるようになっていったのですね。
近藤:誰かと協力して仕事をしたことがない、と言うよりもひとりのほうが良いと思ってきたので、考え方が180度変わりました。仕事も順調に進むようになり、だんだんとお金も入るようになってきて、安定した生活を送れるようになりました。それからしばらくして、ここから今に繋がる出来事が起こり始めます。

多肉とのはじめての出会い

ーーーここまで目まぐるしい経験をしてきた近藤さんが、ついに多肉の世界へ!
近藤:出会い自体は山梨にある八ヶ岳倶楽部というところでした。でも最初は多肉を見に行くためじゃなくて、親戚から「おいしいフルーツティーがあるから飲んできなよ!」と言われて訪れた先で、たまたま八ヶ岳倶楽部という森の中にある美しいレストランとギャラリーに夫婦で訪れたのがきっかけです。ショップには多肉がすらりと並んでいて、妻がそこにあった多肉のリースが欲しいと言ってきて。最初は多肉のことも植物のことも全然詳しくなく、価値もわからなかった僕は「買わないよ!」と言いました。生きている植物を育てた経験もなかったので、すぐ枯らしてしまいそうで……。

ーーーはじめて出会った多肉は手に入れずに終わったのですね。
近藤:ただ、お会計を済まそうとレジに行った時に柳生真吾さんという方が書いた多肉の本が置いてあるのに気付きまして。真吾さんは八ヶ岳倶楽部を作った柳生博さんの息子さんで、そこの代表をしている方です。今で言う“自宅で気軽に楽しめる多肉や園芸ブーム”を広めた先駆者的存在です。その本の中を見たら、さっきのリースの作り方が書いてあって、じゃあ作品は買えないけれどこの本を買って自分で作ってみようか、そう思ったのがこの道に進んだ第一歩です。

ーーーまさかフルーツティーから多肉の世界へ進むとは! リースは実際作られたのですか?
近藤:次の日には作り始めていました。東京に戻り、まずは近場のホームセンターなどで多肉を掻き集めて……。まだ、その時は手頃に多肉が手に入らなかったので苦労して集めました。試行錯誤しながらも頑張ってなんとか形にして、リースを妻にプレゼントしたのです。そしたらすごく喜んでくれて! 妻は自分の事業が立ち行かなくなって苦しんでいた時も支えてくれていた存在で、その彼女が植物でこんなに笑顔になってくれるのか、と感動しました。その笑顔が嬉しくて、その笑顔のために多肉を作ろう、そう思ったのです。それからは作ってはプレゼントする、というのを何度も繰り返し、いつの間にか家の周りが寄せ植えだらけになっていました。外にも置いていたので、近所の人も気になって声を掛けてくれるようになり、時には「この寄せ植えはどこで買えるの?」と聞いてくれる方もいたので、そういう人にも作ってあげるようになりました。

ーーー奥さんへのプレゼントから、他の方にまで近藤さんの作ったもので喜んでもらえるようになっていったのですね。
近藤:趣味で作っていたものだから、欲しいという人には、ついつい渡すようになっていきました。仕入れもその時は市販の多肉を買ってきて使ったりしていた時に、名前があれば市場で安く仕入れられるとわかり、屋号を「季色」という名前にして、やっと手頃な価格で材料を集められるようになりました(笑)。その年の日比谷ガーデニングショーというコンテストに出してみようかとなり、このときも、あくまで趣味の延長だったのですが、2年連続で入賞し周りの人から認めていただくようになりました。

生き方を変える出会い

ーーーまさか仕入れが安くなるという理由で屋号が決まるとは……。
近藤:コンテストに出るようになっても、この世界だけで生きていこうとはまだ思っていませんでした。それ以外にも野外フェスに参加するようにもなり、だんだんと出店する機会が増えたくさんの人に見てもらえようになりました。いくつかの出店を経て、2012年に参加したイベントで、八ヶ岳倶楽部で購入したあの本の作者、柳生真吾さんがイベントにいらしたのです。それも、自分のブースに立ち寄ってくれて。自分からしてみたら多肉の道へ引き込んでくれた方でもあるし、園芸の世界の神様のような存在でもあるし、まさかその方が自分の所に来てくださるなんて! と驚きました。そしたら、作品を見て褒めてくれたんですよ。帰り道は舞い上がるような気持ちで、これ以上ない幸せな瞬間でした。その後に真吾さんから連絡があり、八ヶ岳倶楽部でTOKIIROの作品を取り扱いたいと言われたんです。そこから真吾さんと直接関わらせていただき、亡くなる2015年までの3年間を密に過ごさせていただきました。

ーーー憧れだった方と出会い、そして一緒にお仕事ができるようになったのですね。とても幸せな時間ですね。
近藤:真吾さんは裏表なく、とても優しく、全てが尊敬できる方でした。2015年に亡くなったという連絡をもらった時は、その事実を受け入れられず整理が追いつきませんでした。ただただ真吾さんへの想いが溢れてしまって、フェイスブックで真吾さんへ宛てた手紙のように、いろいろなことを書いたんです。今までのお礼とか、「何がしたかったですか?」とか「僕が引き継げることはありますか?」とか。それを投稿したら、コメントの中で、あるコラムの写真が送られてきたんです。それは真吾さんが書いた連載のコラムの最後のもので、内容は多肉についてでした。「多肉って紅葉するのだけれど、葉が落ちることはない。なんでだろう?」そんなことが書いてありました。送ってくれた人は、真吾さんは最期にこれが知りたかったのではないでしょうか、と投げかけてきたのです。自分も知らないことだったので調べてみると、すぐ答えにたどり着きました。真吾さんが、多肉が落葉しないことを知らないはずがないんですよ。もしかしたら次のコラムで、実はこういう理由でね、と続いたかもしれません。ただ、このことがあって、多肉についてどんどん知るきっかけになっていたのです。これまでは、ただ楽しいから続けていた多肉だったのですが、葉っぱの中で今何が起きているのか、なんでこの形になったのか、と疑問が沸いて出てきました。扱っているのは植物なのですが「この子をいつまでも元気に育てるにはどうしたら良いだろう」、「そのためには土のことを知ろう」、「いやもっと微生物のことを知ろう」、「いやいや地球そのものを知ろう!」と想いの向く先がどんどん広がっていきました。最近では自分の多肉を選んでくれる方には、その多肉がどういう所で生まれ育ち、どうしていけば共存していけるかをアドバイスしています。

ーーー多肉に対する向き合い方を与えてくれたのですね。そうして今のTOKIIROさんへと繋がっていくのですね。
近藤:真吾さんとの出会いがあり、今では彼がキャスターをしていたNHK「趣味の園芸」の講師をさせていただいたり、海外で多肉を披露する機会を得られたりしています。

ーーー活動の幅がもっと広がっていったのですね。これからどんな活動をされていくのか、楽しみです。本日はありがとうございました。

《インタビューを終えて》
園芸や植物と聞くと、大人しいイメージがついて回りますが、TOKIIRO・近藤さんのお話を聞いていくと、表面上だけではわからない、もっと深くにある生命そのものを知りたい、そんな探求心が成せる世界なのだと感じられました。はじめは自分ひとりきりで生きていた近藤さんが、人生に行き詰まった時に気がついた、人との関わり。誰かのために何かをしたいと思う、それまでの価値観をガラリと変える出会いを経て、今のTOKIIROさんがあるのです。もみじ市では、近藤さんの追い求める“命”とは何か、そんなことをTOKIIRO作品から感じ取っていただきたいです。

(手紙社 上野 樹)

もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

ナカキョウ工房

【ナカキョウ工房プロフィール】
毎年毎年、どんな年でも、もみじ市に全力集中。目一杯の愛を持ってもみじ市にとびきりの「ニヤリ」を届けてくれる、ナカキョウ工房・中澤京子さん。柿渋染の生地をメインの素材として、刺繍のブローチやオブジェなどを制作しています。彼女の手から生まれる動物たちは、巷に溢れる動物グッズとは一味違う、無愛想なのに愛おしく、可愛いけれども甘くない「ナカキョウワールド」を展開しています。ブースを訪れるたび、来る人をわっと驚かせるワクワクを用意してくれる中澤さん。もみじ市で彼女の作品と出会うたび、「参りました」と思うのです。
https://www.nakazawakyoko.com

続きを読む

もみじ市 in mado cafe,出店者紹介,ジャンル:FOOD

mado cafe


【mado cafeプロフィール】
「このカフェに行けば、絶対に美味しい幸せを感じられる」。私(担当:富永)がそんな言葉を添えて知人におすすめしているのが、愛知県岡崎市にある「mado cafe」です。柴田真史さん・友香さんが生み出す洗練された空間と絶品メニューの数々が、これまでたくさんの人を虜にしてきました。素材の味をしっかりと楽しめるフードメニューはもちろん、他とはひと味もふた味も違うあま〜いおやつも見逃せません。一口食べれば心が踊る最高の一品を、もみじ市の冒険で味わってみてくださいね。
http://madocafe.jp
Instagram:@madocafe_

【mado cafeの年表・YEARS】

【mado cafe・柴田真史さん、友香さんインタビュー】
愛知県を代表する喫茶店といえばこのお店。今年で11周年を迎えた「mado cafe」の歩みはどのようなものだったのでしょうか。もみじ市の元気印でもある柴田真史さん、友香さんご夫妻に、担当の富永琴美がお話を伺いました。

ふたりの思いが詰まった「mado cafe」

ーーーおふたりの出会いはどのようなきっかけだったのですか?
真史:ふたりとも、同じカフェに入社して一緒に働いていたんです。お互いカフェ巡りが趣味だったことをきっかけに、お付き合いが始まりました。

ーーー年表では、お付き合いをはじめてから2年後にはお店を出す決心をされたとありますが、すごいスピード感ですね!
真史:たまたま僕の実家のとなりに畑があって、そこの土地を使ってみないかという話が来たんです。お互いに「飲食店がやりたい」と思っていたので、即決でした。 22〜23歳くらいの頃に決めて、2年後のオープンのときは24〜25歳くらい。若いエネルギーでしたね。
友香:考えるよりも先に「やるっ!」っていうエネルギーがありました。本能でビビっときたら実行に移しちゃう。

ーーーオープン準備の2年間はどうでしたか?
真史:設計士さんに相談して良い大工さんを教えてもらったんですが、かなり多忙な方で、実際の作業にとりかかるまでの時間がすごく長かったんです。その間に家具などを選んだりして。
友香:施工が始まってからは、私たちも一緒にペンキ塗りなんかをやらせてもらいました。

この場所からたくさんの思い出が生まれました

ーーーおふたりの思いがたくさん詰まった空間なのですね! オープン当初の反応はどうでしたか?
真史:しばらくは苦しい時期が続きました。ホームページもなく、店をはじめて告知らしい告知をしていなかったので。オープンから数ヶ月は近所の人や、通りがかりで立ち寄る方などで賑わったのですが、しばらくすると全然来なくなって。そこからなんとか1年やって、ランチで提供していた和食のご飯が人気になってきたので、それをメインにするようになりました。

ーーー2011年に「手紙社代表北島氏来店」とありますが、おふたりにとってこれはどのような出来事だったのでしょうか。
真史:事件でしたね。お店に入って来たとき、ショップカードのコーナーを物凄くじっくりと見ていて、怪しい人だなって一瞬思いました(笑)。でもウェブで北島さんのインタビューを読んだことがあったので「もしかして、手紙社の人かも!」と気づいたんです。
友香:お店の準備期間に、北島さんが編集長をされていた「自休自足」を読んで、掲載されているお店に憧れを持っていたので、とても嬉しかったです。「自分たちの世界がやっと認められたんだ!」って頑張る力が湧いて来ました。このときからグッとやる気スイッチが入ったんです。

ーーー手紙社と初めて関わったのはインベントかと思い込んでいたのですが、お店のDM制作だったんですね!
真史:北島さんがお店に来てくれたあと、「なにか手紙社さんと一緒にできたらな」と思って東京のお店まで相談しに行って、オープン3周年のDMを作ってもらいました。そのときにイベント出店のお話もして、「第1回 カフェ&ミュージックフェスティバル」に誘ってもらったんです。
友香:他の出店者も憧れのお店ばかりだったので、とても嬉しかったです。イベント当日は、お客さんや会場の空気感がとてもよくて、出られて本当によかったと思いました。

ーーーはじめてのイベント出店では、どんなメニューを出されていたんですか?
真史:時間によって内容を変えていたんです。朝は小倉トーストを出して、午後は出汁巻やおにぎりを出していました。

ーーー最近のイベントのメニューは、クレープやオムライスの印象が強いですが、和風のごはんも出されていたんですね。
真史:オープン当初から、お惣菜と野菜だけのワンプレート「マドごはん」が定番メニューで、イベントにも出していました。でも、何年か作り続けていくうちに「これしか作っていないな」と思って。なんとなく苦しくなってきたんです。
友香:「喫茶店がやりたい」という気持ちが強くて、途中でメニューをガラッと変えました。喫茶店に昔からあるようなものを、“mado cafe風”に仕上げたものを提供しています。
真史:でも実は、今年からまた「マドごはん」が復活したんです。なるべく作り手がわかる地元の野菜や果物、旬の食材を使って、季節を感じられるものを出せたらと思います。

定番のオムライス!
オープン当初のマドごはん
今年復活したマドごはん

愛知の喫茶店の星が、もみじ市へ

ーーー2013年にもみじ市初出店ということですが、当時のことは覚えていますか?
真史:初めてのもみじ市は、1日目が河川敷開催で、2日目が雨で会場を大移動した時だったんです。あれを経験したら、もうなんだってできるんじゃないかなと思います。
友香:2日目は大変すぎて記憶が飛んでるもんね(笑)。
真史:大変だったんですけど、「ついにここまで来た」っていう感動もありました。選りすぐりの出店者が集まる場所なので、全員の名前が紹介される朝礼のときに僕たちの名前が呼ばれたことがとても嬉しかったです。

ーーーもみじ市はどんなイベントだと思いますか?
友香:もみじ市は、会場の一体感みたいなものがすごくある気がします。同じものを好きな人が来て、楽しんでいる。お客さんはもちろん、出店者も楽しいんですよね。
真史:僕はお客さんが河川敷から帰っていく感じも好きです。幸せな空気に包まれた会場から帰っていくお客さんの背中を見送りながら、「今年も出店できた」という喜びを噛み締めています。

ーーー私も、河川敷からお客さんを見送る時間はとても好きです。「また来年、もみじ市で会いましょうね」って、心の中で背中に語りかけています(笑)。
友香:もみじ市は、ボランティアスタッフさんとの出会いも思い出深いです。今うちで働いている子も、ボランティアスタッフをしていたんですよ。もともと名古屋に住んでいる子で。お店にもよく来てくれていました。

ーーーそれはすごい! もみじ市はそんな出会いを生んでいたのですね。
真史:もみじ市で出会った出店者仲間もたくさん増えました。イベント後に店まで遊びに来てくれたりして、とてもいい縁を結んでもらって有難いなあと思っています。

これからも、自分たちらしく

ーーーおふたりが大切にしていることはありますか?
真史:自分たちは食事を出していますが、それ以上に “時間”を提供しているんだと思っています。料理やドリンクは、自分の時間を楽しんでもらうためのひとつのツールになるだけで。読書したり、ぼーっとしたり、おしゃべりしたり。思い思いに過ごしてもらえたらなって思っています。

ーーーお子さんが誕生してから、何か変化したことはありましたか?
真史:目線がかわりましたね。大変なこともありましが、すっごく楽しいです。
友香:疲れが飛ぶよね。子供が産まれたらイベント出店できないかなとか、仕事が制限されるかなとも思ったけど、家族の協力もあって、店も生活も楽しみながらできていると思います。

ーーー12年活動されてきて、大変だったことはありましたか?
真史:やらかしちゃうことはしょっちゅうだけど、あんまり「大変」って感じたことないかもしれないです。皆さんに支えられて、なんとか楽しくここまで来られた気がします。
友香:mado cafeが10周年のときに、1日1組スペシャルゲストを呼んで「マドとみんなでお祝い喫茶」という企画をしました。ものすごくバタバタで忙しかったのですが、毎日違う人に会うことができて本当に楽しかったです。やっている最中は大変だったかもしれないけれど、終わったら不思議と「また来年もやりたいね」と思うんですよね。

10周年企画でコラボしたみなさん

ーーーおふたりの人柄があるからこそ、たくさんの人が集まり、「みんなで楽しいことをしよう!」という空間が作れたのかもしれませんね。これまでの活動を振り返って、いかがですか?
真史: 10周年のときも思いましたが、本当に感謝しかないです。お客さんに来てもらわないと続かない商売なので、ここまでやってこれたことに心から幸せを感じます。

ーーーこれから、やってみたいことがあればぜひ教えてください!
友香:ちっちゃいことはいっぱいあります! また10周年みたいにゲストを呼ぶ企画はやりたいです。あとは、なかなか会いに行けない人に会いにいけたらいいなあ……。
真史:安定の「mado cafe」でこれからもやっていきたい! 軸がブレないように。やりたいことはとつぜん降りてくるかもしれないので、それまではできることを丁寧にしていきたいですね。

今年は柴田ケイコさんとコラボしたクレープが登場します!

《インタビューを終えて》
インタビューの最中何度も「たくさんの人に出会い、支えられてここまでこられた」と話していた真史さんと友香さん。そんなおふたりもまた、もみじ市を支えてくれるかけがえのない存在です。当日は、おなじみのメニューを持って河川敷へ! 丁寧に丁寧に作られるクレープを一口頬張れば、きっと誰もが「ああ、この味に出会えてよかった」と幸せな気持ちに包まれることでしょう。家族も増え、さらにパワーアップを重ねる「mado cafe」に、どうぞご注目ください!

(手紙社 富永琴美)

もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:TEXTILE

kata kata

【kata kataプロフィール】
ぱっちりと開いた目のトラ。一度目が合うと、ぐんと引き寄せられ、逸らすことができない。松永武と高井知絵によるユニット・kata kataが描くのは、そんな不思議な引力を持った生き物たちの姿。日本の伝統技法である、型染めや注染を用いて作られる風呂敷や手ぬぐいは、国外からの注目も集めている。もみじ市ではそんな魅力的なアイテムだけでなく、その場にいる人々を楽しませるような仕掛けを用意してくれる。過去には染めのデモンストレーションや、顔ハメ布などを開催してくれた。自身のことを「口下手」だなんて話すお二人だが、本質はユーモア溢れるエンターテイナーなのかもしれない。
http://kata-kata04.com
Instagram:@katakata.jp

続きを読む

出店者紹介,ジャンル:TEXTILE

点と線模様製作所

【点と線模様製作所プロフィール】
北海道で目にする身近な自然の風景を題材に、テキスタイルを制作。デザイナー・岡理恵子さんが、「暮らしの中に馴染む布を作りたい」という思いから始めたブランドだ。岡さんの手で描かれる模様は、軽やかに、しなやかに、布の上を踊る。そして、私たちの毎日にそっと溶け込み、何気ない時間に彩りを添えてくれる。もみじ市で点と線模様製作所を担当する私、南がずっと気になっているアイテムは、ターバンのキット。美しい模様が描かれたターバンを身に付ければ、いつもよりも晴れやかで、落ち着いた気持ちで過ごせるだろうなぁ、などと思いを馳せている。
http://www.tentosen.info

続きを読む

出店者紹介,ジャンル:CRAFT

中村かりん

【中村かりんプロフィール】
栃木県の益子で作陶する中村かりんさん。立体的な動物たちの愛らしい表情に、特徴的なパステルカラー、繊細で可憐な絵付け……。どこをとっても素晴らしいその作品を眺めていると、まるで恋に落ちたかのようにうっとりとした気分になってくるほど。その作風とはうってかわり(!?)、中村さんご自身はとても自然体で、話しているときの屈託のない笑顔が眩しく感じます。彼女の手から自由自在に生み出されていく器は、食卓に彩りと明るさを、そして幸せな空気までも運んできてくれるのです。
Instagram:@kkarinnnnn

【中村かりんの年表・YEARS】

【中村かりんさんインタビュー】
昨年初めて出店したもみじ市では、瞬く間に作品が売り切れてしまった中村かりんさん。絶大な人気を誇る作品が生まれる工房にお邪魔し、担当の藤枝梢がお話を伺ってきました。

始まりは陶芸体験から

ーーー中村さん、陶芸を始める前は全く別のお仕事をされていたんですよね?
中村:式場のヘアメイクのアシスタントや美容部員の仕事をしていました。その頃に友人に誘われて陶芸の体験教室に行ったんです。観光客向けのところだったので作業はほとんど先生がやってくれて、自分が手を動かすのはほんのちょっとだけでした。何回か通っているうちに、出来上がった作品を見て「え! こんなつもりじゃなかったのに……」と感じることがあり、それからもっと陶芸をやりたいと思うようになりました。

ーーー自らが思うように作りたいという考えから、陶芸の道にのめり込んでいったんですね!
中村:仕事を続けていたので週末の空いた時間を使って、陶芸教室に通い始めました。当時から陶芸家になることを目指していて、ふたつの教室を掛け持ちしていたんですが、月に3〜4回だと全然うまくならないんです。このままでは陶芸家になれないと思って、仕事を辞めることを決意しました。

ーーーかなり大きな決断ですよね……。不安はなかったんですか?
中村:不安よりもやりたい気持ちが大きかったんです。10年本気で頑張ってみて何も先が見えなかったらそこから辞めるか、また就職するかと思っていました。陶芸だけではご飯を食べていけないようだったら、そこからまた考えて働けばいいかなって(笑)。

ーーー仕事を退職されてからはどのような道に進まれたんですか?
中村:未経験者が益子で陶芸を始めるとしたら、製陶所に就職するか指導所に入るか、弟子入りの3パターンだと思うのですが自分の性格的に、製陶所で働くとなるとその作業自体を終わらせることに一生懸命になってしまい、技術の吸収が疎かになってしまう気がして。それまで仕事をしていたこともあって、2年間収入がほとんどなくても大丈夫なぐらいの貯金はあったので、しっかりと勉強ができる指導所に進みました。周囲の人の意見でも、「まず指導所に入ったらいいんじゃないか」という声が多かったのも理由の一つですね。

指導所とアルバイトでの実りある2年間

ーーー通っていた指導所はどのような場所だったんですか?
中村:1年目は轆轤(ろくろ)だけを学び、2年目に轆轤科、釉薬科、石膏科に分かれそれぞれの分野を専門的に勉強していくことになります。1年目で轆轤は教わったので、私は釉薬科に進みました。当時から最終的には独立したいという気持ちがあったので、一人で全部完結させないといけないと思っていて。この時に自分の色を作ることができたのが大きいですね。

釉薬のテストピース

ーーー中村さんの華やかな色の世界の原点になっているんですね!
中村:それと、指導所での勉強と並行しながら、夜や土日だけ3人の作家さんのところにアルバイトに行っていました。ひとりはお茶を習っていた時に一緒になった作家さん、もうひとりはそのお茶が一緒だった作家さんの紹介、最後のひとりは指導所に求人がきていた作家さんでした。積極的に探していたわけではないんですけど、ご縁があってお手伝いに行くことができて。みなさん個人で活動されている作家さんでしたけど、それぞれやり方とかも全然違っていて、「プロの作り手はこうやって仕事をしているんだ!」というのを知ることができました。技術的なところはもちろん、精神的なところでも本当にためになりました。

ーーー指導所で勉強していた内容とは違いましたか?
中村:そうですね。指導所では専門的なことばかりで内容が偏っているので、指導所と同時進行で良かったと思うところが多かったです。バイト中に作家さんが作った釉薬を「この色綺麗ですね」と言うと、調合を直接教えてくれるわけではないけれど、「銅の色だよ」とか簡単なヒントをくれるんです。そのヒントを指導所に持って帰って、先生と相談してテストしてできた色もあったりします。ひとりの作家さんに弟子入りするのも勉強にはなると思うけど、指導所に通っている状態だったので疑問に思ったことを先生に相談できるし、原料も学校に置いてあったからすぐに試すことができました。

卒業、そして独立

ーーー指導所を卒業された後は……?
中村:卒業後の進路は人によってバラバラなんですが、私はすぐに独立しました。2年目の夏ぐらいから「卒業したらどうしよう?」というのがずっと頭の中にあって、弟子入りか独立のどちらかだと思っていました。ちょうどその頃、益子以外の作家さんで弟子入りしたいと思う作家さんがいたんですけど、募集をかけていないということで断られてしまったんです。その報せを聞いたときに、がっかりというよりも安心してしまって(笑)。「私は益子にいたいし、独立したかったんだ!」って自分の気持ちを再確認したんです。

ーーー他の道が閉ざされたことで、本当の気持ちに気がついたんですね。
中村:最初の工房は、もみじ市の出店者でもある石川若彦さんの工房の近くでした。でも、半年ぐらいで今の工房に移ってきて、もうかれこれ10年近くこの工房にいますね。

ーーーこちらの工房はどういうきっかけで知ったんですか?
中村:同業者の人から紹介の電話がかかってきて、その電話をもらった次の日には下見に来ておさえました。ただ、箱だけで窯がない状態だったので、「窯をどうしようかな?」と悩んでいたら、都内で窯を処分したいという方がいて、その方から譲り受けることになったんです。それも連絡をいただいてからすぐに見に行ったんですけど、まるでこの工房に入るための窯というぐらいサイズがぴったりで! タッチの差で色々と手に入れたんですけど、今考えたらすごいラッキーでしたね(笑)。

ふたものの誕生とこれから

ーーーこの当時から作風は今と同じような感じでした?
中村:あまり大きくは変わっていないですね。今回のもみじ市でも昨年と同様にふたものだけを並べる予定なのですが、ふたものは指導所の卒業制作ですでに作っていたので。

ーーー卒業制作はテーマなどが決まっていたんでしょうか?
中村:何も決まっていなくて本当に自由でした。小物だけをいくつも作っている人もいたし、大きいものひとつで勝負している人もいたし。私は、釉薬の色を見てもらうときに、蓋を開けたら色が違うというのを表現できるのが面白いと思い、ふたものを選びました。イッチンも今のように細かい感じではなかったですけど、卒業制作の時からやっていましたね。

ーーー作品を作るときは、どんなものからインスピレーションを受けていますか?
中村:目に入るもの全てから着想を得ています。テレビとか本、雑誌とか、あとは図書館に行ったら図鑑を借りてきて眺めたりしています。動物も植物も形が可愛いなと思うとまず立体で作ってみて、それが気に入ったら平面でも描くようになりますね。今はステゴサウルスにはまっていて、昨日から初めて平面のステゴサウルスを描いているんです(笑)。

ステゴサウルスのふたもの

ひとりで仕事をしていても、ひとりじゃないって感覚がたまにあるんです。お世話になった作家さんが掛けてくれた言葉を思い出したり、特定のお客さんの顔を思い浮かべながら「あの人こういう作品好きそうだな」って考えたり。作っているのは自分なんですけど、今まで言われた言葉とかからも影響を受けているから、周りからの力というのも大きいですね。

《インタビューを終えて》
全く別の世界から陶芸の道へと飛び込んだ中村さん。ここに至るまでのお話を伺える貴重な機会となりました。そんな中村さんが、今年も人気のふたものを携えてもみじ市にやってきます。河川敷の緑をバックに、色とりどりの作品が咲き誇る様子を今からとても楽しみにしています!

(手紙社 藤枝 梢)

【もみじ市当日の、中村かりんさんのブースイメージはこちら!】

出店者紹介,ジャンル:FOOD

Maruyoshi

【Maruyoshiプロフィール】
栃木県宇都宮市にお店を構える「Maruyoshi」。地元、栃木県産の食材だけを使い、イタリアン、パン、お菓子を丁寧に作り、「東京蚤の市」をはじめ、手紙社の大小さまざまなイベントでも、いつも“オイシイモノ”をたくさんの人へ届けてくれています。また、今年11月に、栃木市の東武宇都宮百貨店へ新たなお店をオープンすることが決まっています。食への愛だけではなく、地元への愛、人への愛が溢れている、そんな店主・笠原さんの揺るぎない挑戦に今後も目が離せません。
http://sakaya-cafe-maruyoshi.org

【Maruyoshiの年表・YEARS】

【Maruyoshi・笠原さんインタビュー】
「全てが転機とも言える出来事ばかりでした」とおっしゃる笠原慎也さん。年表を見ると、酒屋さんから始まり、現在は飲食店の経営、イベントへの出店、ブランドのプロデュースなど、毎年驚くほどたくさんの事を行なっていました。そんなMaruyoshiの笠原さんに担当・木村がお話を伺いました。

みんなと違うことをしたくて大阪に

ーーー料理の道に進んだ理由はありますか?
笠原:きっかけは特に覚えてないんですよね。とにかく人と違うことをやりたいと漠然と思っていて、気がついたら料理の道に。みんなが東京なら俺は大阪だ、みたいな。

ーーーまさか、そのような理由だとは思いませんでした! それから大阪で就職された後、地元の栃木県に戻られていますね。
笠原:父が病気で倒れ、家業のマルヨシ酒店を閉めようという相談があり、戻ることを決意しました。初めの1年は酒屋としてお店を切り盛りしていましたが、2年目から店内の一角にテーブルと椅子を置いて、ケーキとコーヒーを提供し始めました。

ーーー酒屋さんにケーキとコーヒー! 新しくて良いですね。
笠原:珍しいですよね。ケーキはほんと1種類か2種類くらいから始めて、近所の奥さまたちがホールで買ってくれるようになって、徐々に範囲を広げていった感じですね。ただ場所が場所だけに、簡単な道ではなかったですけどね。

ーーーそこに“美味しい”があるからこそ、お客様が集まるんだと思います。それから、酒屋さんというより、カフェの方へ業態を少しずつ変えていった形ですか?
笠原:酒屋もやりながら、カフェも続けました。これが「サカヤカエフェ マルヨシ」の始まりです。

ーーーそれからカフェが中心になって、4年後「クッチーナベジターレマルヨシ」に! 規模も大きくなっていますね。
笠原:規模拡大と言うよりは、自分がやりたい方へと自然にシフトチェンジしていった感じですね。

転機となる「第1回森のカフェフェス in ニセコ」への出店

ーーーそれから「第1回森のカフェフェス in ニセコ」に参加してくださっていますね。

笠原:手紙社さん主催の「第1回森のカフェフェス in ニセコ」に出店させていただいたことは、ひとつの転機でした。出店していた、栃木県鹿沼市でのマルシェに手紙社の代表・北島さんがお越しになっていて「そこで北海道来る?」と声をかけていただいたのを今でも思い出します。

ーーー北海道となると距離的にも大変な部分があると思いますが、そのあたりはいかがでしたか?
笠原:そうですね。移動も含めると日数もかかるし、やはり遠いので迷いました。ですが、映えある“第1回目のカフェフェス”にお呼びいただけた名誉を受け止め、思いきって参加させていただくことにしました。

ーーー勇気のいる決断だったんですね。実際、どうでしたか?
笠原:当時のスタッフと家族を全員連れて、気合いを入れて臨みました。ご飯が炊けなかったり、発電機が動かなかったりトラブル満載だったんですが、すごく楽しくて。そこで色んな仲間とも出会い、とにかく打ち上げが最高でしたね(笑)。北海道のみなさまも、普段行けないお店が集まっているので、とても喜んでいました。そして、まさかの栃木からのお客さまもいらっしゃっていて驚きました。

「第1回森のカフェフェス in ニセコ」Maruyoshiさんのブース

ーーー栃木からのお客様は、Maruyoshiさんに会いに遥々来られたのですか?
笠原:うちでチケットを買っていただいての来場でした。2回目以降も定期的に来てくださっていて、とてもありがたかったです。

ーーーそれは嬉しいですね。お店での営業とイベント出店では、何か違う点はありますか?
笠原:取り組み方は基本的には一緒ですが、イベントで知っていただいた方が最終的にお店にきてくれるという様になるのがベストだと思っているので、できる限りお店の雰囲気を出せるようにメニューもブース作りも気をつけています。

ーーーイベントごとに、いつもメニューを変えられていますよね。
笠原:普段お付き合いのある農家さんから仕入れる野菜や果物だったりが季節で変わるので、「どうやったらうまく使えるかな」といつも考えながらメニューを考えています。お店を続けることで繋がっていった農家さんとの、信頼関係もあり、この方の素材を使いたいという思いが増えていった感じです。ブース作りに関しては、例えばりんごを使ったメニューであれば、ずらっと並べたりんごの奥で、焼いている姿が見えるようにブースを作ったりしています。

新店舗のオープン

ーーー地元の方々とのお仕事もたくさんされていますね。
笠原:農家さんとのお付き合いもあり、地元でのお仕事も増えていきました。地元の生産者の方と協力して立ち上げた「ZUTTOキヨハラ」では、元々主宰の山口果樹園さんとのお付き合いがきっかけで、周辺の農家さんの生産物を使いピクルスを作りたいという要望をいただき、監修をしました。

ーーーそして、今年の8月には栃木県栃木市で新店舗をオープン!
笠原:東武宇都宮百貨店栃木市役所店です。こちらではデリカデッセンとして、お惣菜を中心に販売をしています。instagramも開設しました!

「Maruyoshi04DELI」のお惣菜

ーーーinstagramさっそく拝見しました。とても美味しそうで、食べたくなってしまうので夜は見ないようにしています(笑)。そして、今年もすごい活動量ですね。
笠原:そうですね。今年の10月から会社になって、それに伴い人や機会も得るようになりました。新店舗もオープンして、本当に今年はチャレンジの年ですね。

ーーー新しいことに果敢に挑戦する姿に圧倒されます。今年のもみじ市は、どんなメニューが披露されるのか楽しみです。本日はありがとうございました。

《インタビューを終えて》
自分のやりたいことにシフトしていったとおっしゃる笠原さん。ですが、きっとそれは人の想いや期待に応えたい気持ちが、誰よりも強いからではないかと、お話を聴きながら、そう感じました。身近な人を大切にする姿勢と熱意、そして料理の腕を見て、さらにたくさんの人が一緒に何か取り組んでみたい! と思う、その姿。今年のもみじ市も盛り上げてくれること、間違いありません。Maruyoshiを知った方は、ぜひ栃木県の2店舗にも足をお運びくださいね!

(手紙社 木村朱里)