出店者紹介,ジャンル:CRAFT

手作り石鹸 Savon de Siesta

【手作り石鹸 Savon de Siestaプロフィール】
北海道・札幌で、道産の素材を使い“ココロがホッとする”スキンケアを作る。一つひとつ手作りされる石鹸は、「今日もお疲れさま。」と声をかけてくれるかのように、優しく肌を包み込んでくれます。「コールドプロセス製法」によってゆっくり時間をかけて作られるため、たっぷりと保湿成分を含み、肌がつっぱる感触もありません。元々は、代表である附柴彩子さんが肌荒れに悩んだことから、石鹸作りを始めたのだそう。私(担当:南)も使い始めてから1年、日々を癒してくれる欠かせない一品となっています。
https://at-siesta.com
Instagram:@savondesiesta
Facebook:https://www.facebook.com/savondesiesta

【手作り石鹸 Savon de Siestaの年表・YEARS】

【手作り石鹸 Savon de Siesta・附柴彩子さんインタビュー】

もみじ市では唯一、化粧品を扱うSavon de Siesta。つるんと滑らかで、しっとりとした質感の石鹸は、まるでバターやお菓子のようにも見えますが、代表・附柴彩子さんが石鹸作りを始めたきっかけは、“お菓子作り”にあったそう。多くの人の心に寄り添う石鹸誕生の物語を、一緒に見て行きましょう。

お菓子作りが好きな少女は、父に憧れ化学の道へ

ーーー現在、北海道の札幌を拠点に活動されていますが、北海道に移り住んだきっかけはなんだったのでしょうか?
附柴:父が北大(北海道大学)出身なので、家族旅行で北海道を訪れた際に北大のキャンパスを散歩しました。緑がいっぱいで本当に綺麗で。もう「ここしかない!」と思いました。その頃から、北大に行こうと決めていましたね。それに、研究者になりたいなとも思っていたんです。私にとって研究者だった父は憧れの存在で、父のようになりたいなぁと思っていました。

ーーー元々お菓子作りが趣味とのことですが、お菓子の道は選ばれなかったのですね。
附柴:そうですね。最初は製菓の学校に行くか、化学の勉強をするか悩みました。それと歴史も好きだったので、考古学の道も迷ったんですが、父の影響が自分の中で大きくて化学の道に進みました。でも、お菓子作りは大学生になっても続けていたんですよ。週に一回はゼミに持って行って、みんなと食べたりするのが楽しくて。パウンドケーキとか、混ぜて焼くだけのシンプルなケーキを作るのが好きでした。

ーーーそもそも、お菓子作りを始めたきっかけはなんだったのでしょうか?
附柴:母がお菓子作りをする人で、それを手伝っているうちに好きになったんですよね。道具や材料が家にあったので、気付いたら自分でも作るようになっていました。お誕生日会には母がレモンケーキをたくさん焼いてくれて、来てくれた友達それぞれがデコレーションを楽しんだりして。そんな環境だったので、お菓子作りに関しては良い思い出しかないんです。小さい頃も楽しかったし、学生生活の中でも周りのみんなが喜んでくれたから。ものづくりで誰かを笑顔にすることの原体験になっているかもしれません。

ーーー充実の大学4年間を経て迎えた大学院で、研究者の道へ進まれるか悩まれていますが、なぜ向いていないと思ったのですか?
附柴:化学の研究って、狭い範囲のことを針の穴でつつくように、黙々と取り組んで、新しい何かを見つけるんですよ。それはそれで楽しかったんですけど、重箱の隅をつついているような気持ちになってきてしまって。もっと広い目で見ることができたら良かったんですけど、当時の私にはそこまでの余裕が無くて。研究は人とのコミュニケーションがあまりないなぁと思ったんですよね。一人でX線室に籠って、採取したデータを分析にかけたりするんですけど、それがだんだん辛くなってきてしまったんです。もっと人と話を<したいなぁと思うようになって。学生の時点でそう思っているということは、仕事として向いてないんじゃないかなと思ったんですよね。実験自体は好きだったんですが、自分が良いと思ったものを伝えたりすることも好きだったので、もう少し人と接する機会の多い仕事をしたいと思ってしまいました(笑)。

ーーーそれで進路を悩まれるんですね。
附柴:当時は化学を専攻したことを「ちょっと間違ったかなぁ」と思いました。もしお菓子を作る学校に行ってたら、もっと人と接することができたんじゃないかって。それで、製菓学校の資料を取り寄せたりもしましたが、今までやってきたことも無駄にしたくないなぁという思いもありました。そんなモヤモヤした気持ちで研究を続けても良い結果は出ないなと思い、一度リセットするために大学を休学したんです。

ーーーそれから始められたのが、カフェのアルバイトだったというわけですね。
附柴:そうです。お菓子に関わる仕事もしてみたかったので、カフェを選びました。そこでは接客のみで、お菓子作りはしなかったんですけど、ギャラリーが併設されていたので、運営の手伝いをさせてもらって。大学の中では出会わない人たちや作家さんに出会う機会があって、世の中にはこんな自由な生き方があるんだと思いました。それが、自分でものを作ることを始めるきっかけにもなったんです。ちなみに、石鹸屋として独立した頃、そのカフェの空きスペースをお借りしていたこともあったんです。石鹸を試作する工房がなくて、マスターに相談したら快く貸してくださいました。

お菓子作りとそっくりだった石鹸作り

ーーー休学中に、もう1つの転機である石鹸作りとの出会いが訪れるのですね。
附柴:お菓子作りの本を買うために本屋さんへよく通っていたのですが、たまたま隣に石鹸作りの本があったので、試しに石鹸を作ってみました。そしたら、材料を測って、順番に混ぜて、固めていくという作業が、お菓子作りや化学の実験の工程にすごく似ていて、楽しかったんです。人生に迷っていた私は、「やりたい仕事を見つけた」と思いました。

ーーーそこで石鹸作りに目覚めたのですね! その頃、ご自身も肌荒れに悩んでいたそうですね。
附柴:そうなんです。化粧品にかぶれたんですよ。高価なものをラインで揃えて使ったら、見事にかぶれてしまって。それをきっかけに、成分表示を見るようになったのですが、肌に本当に必要な成分以外にも色々含まれていることを知りました。それで、もっとシンプルなものを使いたいと思うようになって、石鹸を作り始めましたね。

ーーーちなみに、お菓子作りを仕事にしようとは思わなかったのですか?
附柴:悩んだ時期もありましたが、お菓子作りを仕事にするのはすごく難しいと思ったんです。すでに仕事にされている方も大勢いらっしゃるし、体力仕事なので。パン屋も考えたんですけど、粉も重いなぁと(笑)。出産やその後の人生を考えたときに、どうも踏ん切りがつかなくて。石鹸作りなら、今までやってきた化学の知識も活かせるし、作った石鹸で誰かに喜んでもらうこともできるし、これだなと思いました。

製薬会社への就職、そして起業へ

ーーーその後、すぐに石鹸作りの仕事は始めず、一度就職されたのですね。
附柴:石鹸屋さんになることを決めたものの、どうやって始めたら良いか分からなくて。石鹸屋さんで働くのか、自ら起業するのか。そこでひとまず石鹸に関係するような、化粧品や製薬系の業界を受けました。最終的には製薬系に受かったんですけど、京都勤務になってしまったんです。

ーーー大好きな北海道から離れることになってしまったのですね!
附柴:最初は北海道勤務を希望して、内定をいただいたのですが、大学院の卒業が1年早まったんです。復帰して研究を再開したら、データがたくさん取れて、論文も書けて、卒業に必要なものが揃ってしまったんですよ。教授に呼び出されて「1年で卒業できるよ」と言われたときはびっくりしましたが、まぁそれなら早く社会に出ようと思い、会社に相談して1年早く就職できることになりました。でも、勤務地が西日本だけだったんです。他の新入社員と配属先の話をしたときに、「北海道は無いよ」って言われたんですよ。どうやらその会社は、東日本と西日本の勤務地に、1年ごとに交代で採用していたそうです。そこでもまたびっくりして、人事に確認したら伝え忘れてたみたいで。最終的に京都での勤務が決まりましたが、衝撃続きでした(笑)。

ーーー波乱万丈な時期だったのですね(笑)。
附柴:ちょうどその頃、私の主人も波乱万丈な時期でした。同級生だった主人は、修士論文も終わり、卒業間近に念願の成果が出たんです。そしたら、就職せず、研究を続けたくなってしまったようなんです(笑)。そこで内定していた会社に気持ちを伝えたところ、社内の研究員になることができて、大学院に残ることができて。1年後にはその会社の援助を受けて、起業することになりました。

ーーーお互いに、怒涛の1年間でしたね。
附柴:本当に。でも、近くで起業の流れを見ることができてラッキーでした。その後、結婚のタイミングで北海道に戻り、Savon de Siestaを始めたのが2005年のことですね。

ーーー附柴さんご自身は、就職されてみてどうでしたか?
附柴:製薬会社での仕事はすごくハードでしたが、その間もずっと石鹸作りは続けていました。自分で作った石鹸を使うと、すごく気持ちが安らいだんです。なので、ただの石鹸ではなく、頑張る人にホッとする瞬間をくれるような石鹸を作りたいと思うようになりました。

ーーー私も仕事から帰って来て、Savon de Siestaさんの石鹸を使うとすごく癒されます。ご自身もそうだったのですね。
附柴:たぶんシエスタのことは、私が一番好きだと思います。ブランドを始めた当初から、日常の中で元気をくれたり、気分転換になったり、そういう気持ちで使ってくれる方は多いですね。

念願の石鹸屋・Savon de Siestaをスタート

ーーーSavon de Siestaを始めた当初は、WEBショップと、お店の展示会での販売だったとありますが、どのようにして展開されたのですか?
附柴:色んなところへ、行商みたいに足を運んでいました。お店での展示会は、私から売り込みに行ったこともあります。札幌市には、市が運営している「札幌スタイル」という認証制度があって、認証された商品は積極的に紹介してもらえるようになるんです。私もブランドを立ち上げてすぐ応募して、採用してもらえたおかげで百貨店への出店も叶いました。

ーーー2009年、4つ目の転機として実店舗のオープンを挙げられていますが、オープンまでの経緯を聞かせてください。
附柴:旅をするようにあちこちで販売しているうちに、北海道のイベントに参加させていただけるようになりました。そこでお客さまから、「日用品だから、いつでも手に取って買える場所があったらいいのに」と言われるようになったんです。私もお客さまとゆっくり会話できる場所があったらいいなと思っていたので、スペース115の1室を借りました。一人でやっていたので、無理せず週3日のオープンからスタートしました。

ーーー石鹸作りをしながらショップを運営されていたのですか?
附柴:製造は、主人の会社にお願いしていました。事業契約をして、私はレシピを提供して、主人の会社から仕入れるという形にしていたんですが、やっぱり自分で作りたくなってしまって(笑)。小さかったけれど、スペース115のビルの5階に工房を作りました。でも、お店とは別の階に工房があったので、お客さまに、ここで石鹸を作っていることを伝えても、みんな全然ピンとこないみたいで。「石鹸って作れるの?」と聞かれることも増え、これは製造過程を見せられる場所を作ったほうがいいなと思い、現在の店舗を作りました。

ーーーそれで現在のお店の形が出来上がったんですね。やはりお客さまも、製造の様子が見えると、安心して使えるのでしょうか。
附柴:そうですね、安心感に繋がりますし、興味を持ってくれますね。男性の方が工房を食い入るように見ることが多いです。あとは、子どもたちがすごく見てくれるんですよね。「大きくなったら石鹸屋になりたい」って言ってくれる子もいたりして。私自身、仕事に悩んだ経験があるので、子どもたちがもっと自由に仕事を選べるお手伝いができたらいいなぁって思うんです。今度、アートスクールとコラボすることになったんですよ。私の子どもがそこに通っていて、スクールの先生と「一緒に何かできたらいいね」って話をしていて、子どもたちがシエスタラボに見学に来ることになりました。それで、石鹸のパッケージをデザインする授業をするんです。デザインされたパッケージは、シエスタで包んで、販売をするところまでやるんですよ。子どもたちに向けて何かやりたいなと思っていたらそういうお話をいただけたので、すごく楽しみです。

店内に隣接する工房
点と線模様製作所・岡理恵子さんのイラストが壁に描かれています
一つひとつ手作業でカットされる石鹸
大きなバターのようでちょっと美味しそうです

憧れだったもみじ市

ーーーもみじ市に初めて出店されたのは2013年。今年で7度目の出店ですね!
附柴:もう、夢のもみじ市だったんですよ。出店できるまで、お客さんとしても行かないと決めていて、毎年やりたいことリストに「もみじ市に出る」って書いていました(笑)。2007年に札幌で開催した「旅するもみじ市」で初めて手紙社さんのイベントに出店させてもらって、その後、森のカフェフェスでお声がけいただいて、2013年の4月に洋子さん(手紙社・副代表)から電話がかかってきて。「もみじ市に出ませんか?」って聞かれたときのことは、今でも覚えています。キャンドル作家のnuriさんと仲が良いのですが、声をかけていただく前に京都で一緒にご飯を食べたんです。nuriさんがもみじ市に出店し始めた頃で、「夢のもみじ市なんだよね」とお話していました。

ーーーそんなに憧れを持ってくださっているなんて、こちらも背筋が伸びる思いです。もみじ市は屋外での出店ですが、大変なことはありますか?
附柴:私たちはそこまで大変な思いをしたことはなくて、むしろボランティアさんへの感謝しかないです。初めて出店した回が横殴りの大雨で、ボランティアスタッフの皆さんが「大丈夫ですか?」って気にかけてくださって、ありがたかったです。

ーーー事務局も、ボランティアスタッフさんにはすごく助けられています。
附柴:ただ、雨が降った後の河川敷は、リアカーが全く動かなくなってしまうので大変です。あと、ペース配分を間違えて、搬入日に気合いを入れすぎてしまうと、当日の体力が無くなってしまうので気を付けます(笑)。

「手作り石鹸 Savon de Siesta」のこれから

ーーー今後、Savon de Siestaをどんなお店にしていきたいですか?
附柴:やっぱり、基本は石鹸屋なんです。たまに作家さんの個展を開催したりもしますが、やっぱりシエスタは石鹸屋なんだなということを、最近強く思うようになりました。もっと、石鹸作りをストイックにやっていきたいなって。原料の選び方だったり、農家さんとのやり取りだったり。私もスタッフも心から好きだと思えて、お客さまにも喜んでもらえるものを作り続けたいなと思います。今はまず、そのための環境を作ろうとしていますね。スタッフが増えるほど、意識を統一したり、個々にやりがいを感じてもらうことがなかなか難しくなると思うんです。今は忙しくて、大変さばかり感じてしまっていると思うんですけど、そこを変えていきたいですね。

でも先日、Savon de Siestaの14周年を記念して、うちのスタッフがSNSに自分たちの写真をアップしてくれていたんですけど、みんなすっごくいい笑顔だったんです。それにはすごく感動して、みんなが居てくれて良かったなぁと、心から思いました。なので、みんながSavon de Siestaを愛せる場所を作っていきたいなと思っています。

14周年を記念した石鹸オブジェも登場します!
ぜひ一緒に写真を撮ってくださいね

《インタビューを終えて》
Savon de Siestaの石鹸で顔を洗うと、心がほぐれていくのが分かります。そして、明日も頑張る勇気をもらえます。他のスキンケアでは感じられないこの感覚は何なのだろうと、ずっと不思議でした。ですがこの日、キラキラとした表情で話す附柴さんを見て、その理由が分かりました。この石鹸たちは、心を込めて選ばれた素材のエネルギー、そして、附柴さんの思いに満ちているからなのだと。

(手紙社 南 怜花)

出店者紹介,ジャンル:CRAFT

TOKIIRO

【TOKIIRO プロフィール】
10年前から千葉・浦安にアトリエを構え、イベント出店やワークショップなどを通じ、多肉植物のある暮らしを提案し続けているTOKIIRO。ぷっくりと膨らんだ葉やうねりのある茎など、神秘的な姿の植物を器の上に絵を描くように植えていきます。現在、NHK「趣味の園芸」の講師を務めたりと多岐に渡り活動中。季(とき)の色を感じる大小様々な多肉植物がひとつの器にアレンジされ、その姿に惚れ惚れとしてしまうことでしょう。
http://www.tokiiro.com

【TOKIIROの年表・YEARS】

【TOKIIROさんインタビュー】
最近では手軽に購入できるようになった多肉植物。ぷっくりと可愛い葉や、個性的な形の植物に癒されている方も多いはず。TOKIIRO・近藤義展さんの作る多肉の寄せ植えは、小さな鉢植えの上に何種類もの品種の植物たちが、絶妙なバランスを取りながら共存しています。実は多肉の道へと至るまで一筋縄ではいかない体験を持つ近藤さんに、浦安のアトリエでお話をお聞きしました。

好きなものに没頭していた学生時代

ーーー近藤さんは昔から植物がお好きだったのですか?
近藤:小さい頃からミュージシャンになるのが夢で、大学に行っても音楽に明け暮れた日々を送っていました。パートはキーボードで曲作りも自分たちでして、プロの道へと突き進んでいきました。

ーーー音楽の道に進んでいたんですね
近藤:プロになってしばらくして気がつきました。どんなに努力しても1%の才能を持つ人たちには敵わないって。あまり他の人たちがどんな音楽を作っているのか、流行りはどういうのかなど、周りのことは気にしない性格だったのですが、ある時から曲を作ることができなくなって、「あぁ、自分には才能がないんだな」って悟って、ほどなくして違うことをしようとなりました。

ーーーなるほど。それで音楽から植物の道へ……。
近藤:いや、今やっている多肉との出会いは結構最近なんです(笑)。音楽を辞めてからは、自分で事業を立ち上げたりして今とは全然関係のない仕事をやっていましたよ。自分の価値は自分でしか測れないと思っていた時期があって、どこかの会社に入ってお給料をもらっても、それは本当に自分のスキルに対して正当なものなのか、と疑問を持っていたので、自分だけでできる仕事をしようと移っていきました。

個人事業とうまくいかない日々

ーーー個人事業をいきなりはじめたのですね。そのときはどんなことをされていたのですか?
近藤:まずは事業を始めるにあたって、帝王学や成功哲学とか、仕事でどうやったらちゃんとお金を稼ぐことができるかを徹底的に学びました。そこで見つけたのが、“まだ世には出ていない未来の製品”を作っているメーカーの代理店の仕事です。今で言うiPhoneのような、その当時はまだ使い方もわからないような物を作っている夢のような会社がありました。そういった物を扱って販売していたのですが、何と言っても誰も使ったことがない、前例のないものを売るわけだから、買ってもらうのは大変でした。

ーーーたしかに、未知の道具に対して最初は怪しんでしまいますよね。
近藤:なので、物を売ると言うよりも、“自分”を売る、という表現のほうが正しいかもしれません。まずは近藤義展というひとりの人間を信用してもらい、この人が勧めるなら間違いないと思ってくれるアプローチをしていきました。こういう時に学んでいた帝王学とかが活きてきましたね。

ーーー夢の道具を売り歩く商社マン、と言ったところでしょうか。かっこいいですね。
近藤:でも、長くは続きませんでした。プライドだけが高くなって、間違った方向に進んでいても自分の考え方を変えられなくなっていったんです。「かっこよくいたい」、そう考えてしまって、今考えれば全然かっこよくないのに、それが正解だって思ってしまっていて。先輩たちからの忠告やアドバイスもたくさんもらっていたのですが、受け入れられずにいました。冷静になって思い返せば、大事なことをたくさん言われていましたよ。それで、事業がうまくいかなくなって、借金だけが増えて生きていくのさえ辛くなっていきました。

ーーーそこから今に至るまでどんな心境の変化があったのでしょうか。
近藤:その頃は家賃を払うのもままならなくて。でも、先の見えない生活でも猫は飼っていたのですが、その子のご飯は「何としても食べさせなければ」と思っていたんですよ、自分が食べるのも精一杯だったのに。だけど本当に仕事も無くなり、何もすることがない日々が続いて、もう無理だと人生の終わりを悟りかけた時、猫の「にゃー」って鳴き声を聞いてハッとしたんです。自分が居なくなったらこの子はどうやって生きていくのだろうと。この時から死に物狂いで何でもやるようになりました。

ーーー飼っていた猫に救われたのですね。
近藤:そうですね。それからは知り合いからの紹介で、地デジアンテナの交換の仕事をはじめました。まだ地デジって何? と思われている時期で、中々理解を得られない方にも根気強く説明したりして、アンテナの取り付けなど行っていました。他人と協力して何かを成し遂げる、ということもこの時が初めてでした。

ーーーずっとひとりだった近藤さんの仕事に、他の方が関わるようになっていったのですね。
近藤:誰かと協力して仕事をしたことがない、と言うよりもひとりのほうが良いと思ってきたので、考え方が180度変わりました。仕事も順調に進むようになり、だんだんとお金も入るようになってきて、安定した生活を送れるようになりました。それからしばらくして、ここから今に繋がる出来事が起こり始めます。

多肉とのはじめての出会い

ーーーここまで目まぐるしい経験をしてきた近藤さんが、ついに多肉の世界へ!
近藤:出会い自体は山梨にある八ヶ岳倶楽部というところでした。でも最初は多肉を見に行くためじゃなくて、親戚から「おいしいフルーツティーがあるから飲んできなよ!」と言われて訪れた先で、たまたま八ヶ岳倶楽部という森の中にある美しいレストランとギャラリーに夫婦で訪れたのがきっかけです。ショップには多肉がすらりと並んでいて、妻がそこにあった多肉のリースが欲しいと言ってきて。最初は多肉のことも植物のことも全然詳しくなく、価値もわからなかった僕は「買わないよ!」と言いました。生きている植物を育てた経験もなかったので、すぐ枯らしてしまいそうで……。

ーーーはじめて出会った多肉は手に入れずに終わったのですね。
近藤:ただ、お会計を済まそうとレジに行った時に柳生真吾さんという方が書いた多肉の本が置いてあるのに気付きまして。真吾さんは八ヶ岳倶楽部を作った柳生博さんの息子さんで、そこの代表をしている方です。今で言う“自宅で気軽に楽しめる多肉や園芸ブーム”を広めた先駆者的存在です。その本の中を見たら、さっきのリースの作り方が書いてあって、じゃあ作品は買えないけれどこの本を買って自分で作ってみようか、そう思ったのがこの道に進んだ第一歩です。

ーーーまさかフルーツティーから多肉の世界へ進むとは! リースは実際作られたのですか?
近藤:次の日には作り始めていました。東京に戻り、まずは近場のホームセンターなどで多肉を掻き集めて……。まだ、その時は手頃に多肉が手に入らなかったので苦労して集めました。試行錯誤しながらも頑張ってなんとか形にして、リースを妻にプレゼントしたのです。そしたらすごく喜んでくれて! 妻は自分の事業が立ち行かなくなって苦しんでいた時も支えてくれていた存在で、その彼女が植物でこんなに笑顔になってくれるのか、と感動しました。その笑顔が嬉しくて、その笑顔のために多肉を作ろう、そう思ったのです。それからは作ってはプレゼントする、というのを何度も繰り返し、いつの間にか家の周りが寄せ植えだらけになっていました。外にも置いていたので、近所の人も気になって声を掛けてくれるようになり、時には「この寄せ植えはどこで買えるの?」と聞いてくれる方もいたので、そういう人にも作ってあげるようになりました。

ーーー奥さんへのプレゼントから、他の方にまで近藤さんの作ったもので喜んでもらえるようになっていったのですね。
近藤:趣味で作っていたものだから、欲しいという人には、ついつい渡すようになっていきました。仕入れもその時は市販の多肉を買ってきて使ったりしていた時に、名前があれば市場で安く仕入れられるとわかり、屋号を「季色」という名前にして、やっと手頃な価格で材料を集められるようになりました(笑)。その年の日比谷ガーデニングショーというコンテストに出してみようかとなり、このときも、あくまで趣味の延長だったのですが、2年連続で入賞し周りの人から認めていただくようになりました。

生き方を変える出会い

ーーーまさか仕入れが安くなるという理由で屋号が決まるとは……。
近藤:コンテストに出るようになっても、この世界だけで生きていこうとはまだ思っていませんでした。それ以外にも野外フェスに参加するようにもなり、だんだんと出店する機会が増えたくさんの人に見てもらえようになりました。いくつかの出店を経て、2012年に参加したイベントで、八ヶ岳倶楽部で購入したあの本の作者、柳生真吾さんがイベントにいらしたのです。それも、自分のブースに立ち寄ってくれて。自分からしてみたら多肉の道へ引き込んでくれた方でもあるし、園芸の世界の神様のような存在でもあるし、まさかその方が自分の所に来てくださるなんて! と驚きました。そしたら、作品を見て褒めてくれたんですよ。帰り道は舞い上がるような気持ちで、これ以上ない幸せな瞬間でした。その後に真吾さんから連絡があり、八ヶ岳倶楽部でTOKIIROの作品を取り扱いたいと言われたんです。そこから真吾さんと直接関わらせていただき、亡くなる2015年までの3年間を密に過ごさせていただきました。

ーーー憧れだった方と出会い、そして一緒にお仕事ができるようになったのですね。とても幸せな時間ですね。
近藤:真吾さんは裏表なく、とても優しく、全てが尊敬できる方でした。2015年に亡くなったという連絡をもらった時は、その事実を受け入れられず整理が追いつきませんでした。ただただ真吾さんへの想いが溢れてしまって、フェイスブックで真吾さんへ宛てた手紙のように、いろいろなことを書いたんです。今までのお礼とか、「何がしたかったですか?」とか「僕が引き継げることはありますか?」とか。それを投稿したら、コメントの中で、あるコラムの写真が送られてきたんです。それは真吾さんが書いた連載のコラムの最後のもので、内容は多肉についてでした。「多肉って紅葉するのだけれど、葉が落ちることはない。なんでだろう?」そんなことが書いてありました。送ってくれた人は、真吾さんは最期にこれが知りたかったのではないでしょうか、と投げかけてきたのです。自分も知らないことだったので調べてみると、すぐ答えにたどり着きました。真吾さんが、多肉が落葉しないことを知らないはずがないんですよ。もしかしたら次のコラムで、実はこういう理由でね、と続いたかもしれません。ただ、このことがあって、多肉についてどんどん知るきっかけになっていたのです。これまでは、ただ楽しいから続けていた多肉だったのですが、葉っぱの中で今何が起きているのか、なんでこの形になったのか、と疑問が沸いて出てきました。扱っているのは植物なのですが「この子をいつまでも元気に育てるにはどうしたら良いだろう」、「そのためには土のことを知ろう」、「いやもっと微生物のことを知ろう」、「いやいや地球そのものを知ろう!」と想いの向く先がどんどん広がっていきました。最近では自分の多肉を選んでくれる方には、その多肉がどういう所で生まれ育ち、どうしていけば共存していけるかをアドバイスしています。

ーーー多肉に対する向き合い方を与えてくれたのですね。そうして今のTOKIIROさんへと繋がっていくのですね。
近藤:真吾さんとの出会いがあり、今では彼がキャスターをしていたNHK「趣味の園芸」の講師をさせていただいたり、海外で多肉を披露する機会を得られたりしています。

ーーー活動の幅がもっと広がっていったのですね。これからどんな活動をされていくのか、楽しみです。本日はありがとうございました。

《インタビューを終えて》
園芸や植物と聞くと、大人しいイメージがついて回りますが、TOKIIRO・近藤さんのお話を聞いていくと、表面上だけではわからない、もっと深くにある生命そのものを知りたい、そんな探求心が成せる世界なのだと感じられました。はじめは自分ひとりきりで生きていた近藤さんが、人生に行き詰まった時に気がついた、人との関わり。誰かのために何かをしたいと思う、それまでの価値観をガラリと変える出会いを経て、今のTOKIIROさんがあるのです。もみじ市では、近藤さんの追い求める“命”とは何か、そんなことをTOKIIRO作品から感じ取っていただきたいです。

(手紙社 上野 樹)

もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

ナカキョウ工房

【ナカキョウ工房プロフィール】
毎年毎年、どんな年でも、もみじ市に全力集中。目一杯の愛を持ってもみじ市にとびきりの「ニヤリ」を届けてくれる、ナカキョウ工房・中澤京子さん。柿渋染の生地をメインの素材として、刺繍のブローチやオブジェなどを制作しています。彼女の手から生まれる動物たちは、巷に溢れる動物グッズとは一味違う、無愛想なのに愛おしく、可愛いけれども甘くない「ナカキョウワールド」を展開しています。ブースを訪れるたび、来る人をわっと驚かせるワクワクを用意してくれる中澤さん。もみじ市で彼女の作品と出会うたび、「参りました」と思うのです。
https://www.nakazawakyoko.com

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出店者紹介,ジャンル:CRAFT

中村かりん

【中村かりんプロフィール】
栃木県の益子で作陶する中村かりんさん。立体的な動物たちの愛らしい表情に、特徴的なパステルカラー、繊細で可憐な絵付け……。どこをとっても素晴らしいその作品を眺めていると、まるで恋に落ちたかのようにうっとりとした気分になってくるほど。その作風とはうってかわり(!?)、中村さんご自身はとても自然体で、話しているときの屈託のない笑顔が眩しく感じます。彼女の手から自由自在に生み出されていく器は、食卓に彩りと明るさを、そして幸せな空気までも運んできてくれるのです。
Instagram:@kkarinnnnn

【中村かりんの年表・YEARS】

【中村かりんさんインタビュー】
昨年初めて出店したもみじ市では、瞬く間に作品が売り切れてしまった中村かりんさん。絶大な人気を誇る作品が生まれる工房にお邪魔し、担当の藤枝梢がお話を伺ってきました。

始まりは陶芸体験から

ーーー中村さん、陶芸を始める前は全く別のお仕事をされていたんですよね?
中村:式場のヘアメイクのアシスタントや美容部員の仕事をしていました。その頃に友人に誘われて陶芸の体験教室に行ったんです。観光客向けのところだったので作業はほとんど先生がやってくれて、自分が手を動かすのはほんのちょっとだけでした。何回か通っているうちに、出来上がった作品を見て「え! こんなつもりじゃなかったのに……」と感じることがあり、それからもっと陶芸をやりたいと思うようになりました。

ーーー自らが思うように作りたいという考えから、陶芸の道にのめり込んでいったんですね!
中村:仕事を続けていたので週末の空いた時間を使って、陶芸教室に通い始めました。当時から陶芸家になることを目指していて、ふたつの教室を掛け持ちしていたんですが、月に3〜4回だと全然うまくならないんです。このままでは陶芸家になれないと思って、仕事を辞めることを決意しました。

ーーーかなり大きな決断ですよね……。不安はなかったんですか?
中村:不安よりもやりたい気持ちが大きかったんです。10年本気で頑張ってみて何も先が見えなかったらそこから辞めるか、また就職するかと思っていました。陶芸だけではご飯を食べていけないようだったら、そこからまた考えて働けばいいかなって(笑)。

ーーー仕事を退職されてからはどのような道に進まれたんですか?
中村:未経験者が益子で陶芸を始めるとしたら、製陶所に就職するか指導所に入るか、弟子入りの3パターンだと思うのですが自分の性格的に、製陶所で働くとなるとその作業自体を終わらせることに一生懸命になってしまい、技術の吸収が疎かになってしまう気がして。それまで仕事をしていたこともあって、2年間収入がほとんどなくても大丈夫なぐらいの貯金はあったので、しっかりと勉強ができる指導所に進みました。周囲の人の意見でも、「まず指導所に入ったらいいんじゃないか」という声が多かったのも理由の一つですね。

指導所とアルバイトでの実りある2年間

ーーー通っていた指導所はどのような場所だったんですか?
中村:1年目は轆轤(ろくろ)だけを学び、2年目に轆轤科、釉薬科、石膏科に分かれそれぞれの分野を専門的に勉強していくことになります。1年目で轆轤は教わったので、私は釉薬科に進みました。当時から最終的には独立したいという気持ちがあったので、一人で全部完結させないといけないと思っていて。この時に自分の色を作ることができたのが大きいですね。

釉薬のテストピース

ーーー中村さんの華やかな色の世界の原点になっているんですね!
中村:それと、指導所での勉強と並行しながら、夜や土日だけ3人の作家さんのところにアルバイトに行っていました。ひとりはお茶を習っていた時に一緒になった作家さん、もうひとりはそのお茶が一緒だった作家さんの紹介、最後のひとりは指導所に求人がきていた作家さんでした。積極的に探していたわけではないんですけど、ご縁があってお手伝いに行くことができて。みなさん個人で活動されている作家さんでしたけど、それぞれやり方とかも全然違っていて、「プロの作り手はこうやって仕事をしているんだ!」というのを知ることができました。技術的なところはもちろん、精神的なところでも本当にためになりました。

ーーー指導所で勉強していた内容とは違いましたか?
中村:そうですね。指導所では専門的なことばかりで内容が偏っているので、指導所と同時進行で良かったと思うところが多かったです。バイト中に作家さんが作った釉薬を「この色綺麗ですね」と言うと、調合を直接教えてくれるわけではないけれど、「銅の色だよ」とか簡単なヒントをくれるんです。そのヒントを指導所に持って帰って、先生と相談してテストしてできた色もあったりします。ひとりの作家さんに弟子入りするのも勉強にはなると思うけど、指導所に通っている状態だったので疑問に思ったことを先生に相談できるし、原料も学校に置いてあったからすぐに試すことができました。

卒業、そして独立

ーーー指導所を卒業された後は……?
中村:卒業後の進路は人によってバラバラなんですが、私はすぐに独立しました。2年目の夏ぐらいから「卒業したらどうしよう?」というのがずっと頭の中にあって、弟子入りか独立のどちらかだと思っていました。ちょうどその頃、益子以外の作家さんで弟子入りしたいと思う作家さんがいたんですけど、募集をかけていないということで断られてしまったんです。その報せを聞いたときに、がっかりというよりも安心してしまって(笑)。「私は益子にいたいし、独立したかったんだ!」って自分の気持ちを再確認したんです。

ーーー他の道が閉ざされたことで、本当の気持ちに気がついたんですね。
中村:最初の工房は、もみじ市の出店者でもある石川若彦さんの工房の近くでした。でも、半年ぐらいで今の工房に移ってきて、もうかれこれ10年近くこの工房にいますね。

ーーーこちらの工房はどういうきっかけで知ったんですか?
中村:同業者の人から紹介の電話がかかってきて、その電話をもらった次の日には下見に来ておさえました。ただ、箱だけで窯がない状態だったので、「窯をどうしようかな?」と悩んでいたら、都内で窯を処分したいという方がいて、その方から譲り受けることになったんです。それも連絡をいただいてからすぐに見に行ったんですけど、まるでこの工房に入るための窯というぐらいサイズがぴったりで! タッチの差で色々と手に入れたんですけど、今考えたらすごいラッキーでしたね(笑)。

ふたものの誕生とこれから

ーーーこの当時から作風は今と同じような感じでした?
中村:あまり大きくは変わっていないですね。今回のもみじ市でも昨年と同様にふたものだけを並べる予定なのですが、ふたものは指導所の卒業制作ですでに作っていたので。

ーーー卒業制作はテーマなどが決まっていたんでしょうか?
中村:何も決まっていなくて本当に自由でした。小物だけをいくつも作っている人もいたし、大きいものひとつで勝負している人もいたし。私は、釉薬の色を見てもらうときに、蓋を開けたら色が違うというのを表現できるのが面白いと思い、ふたものを選びました。イッチンも今のように細かい感じではなかったですけど、卒業制作の時からやっていましたね。

ーーー作品を作るときは、どんなものからインスピレーションを受けていますか?
中村:目に入るもの全てから着想を得ています。テレビとか本、雑誌とか、あとは図書館に行ったら図鑑を借りてきて眺めたりしています。動物も植物も形が可愛いなと思うとまず立体で作ってみて、それが気に入ったら平面でも描くようになりますね。今はステゴサウルスにはまっていて、昨日から初めて平面のステゴサウルスを描いているんです(笑)。

ステゴサウルスのふたもの

ひとりで仕事をしていても、ひとりじゃないって感覚がたまにあるんです。お世話になった作家さんが掛けてくれた言葉を思い出したり、特定のお客さんの顔を思い浮かべながら「あの人こういう作品好きそうだな」って考えたり。作っているのは自分なんですけど、今まで言われた言葉とかからも影響を受けているから、周りからの力というのも大きいですね。

《インタビューを終えて》
全く別の世界から陶芸の道へと飛び込んだ中村さん。ここに至るまでのお話を伺える貴重な機会となりました。そんな中村さんが、今年も人気のふたものを携えてもみじ市にやってきます。河川敷の緑をバックに、色とりどりの作品が咲き誇る様子を今からとても楽しみにしています!

(手紙社 藤枝 梢)

【もみじ市当日の、中村かりんさんのブースイメージはこちら!】

出店者紹介,ジャンル:CRAFT

nuri candle

【nuri candleプロフィール】
福岡出身のキャンドル作家・nuri candleのnuriさんこと福間乃梨子さん。岐阜で修行し、京都での作家活動を経て、現在は地元福岡のアトリエで制作中。キャンドルに込められているのは自然から受けたインスピレーション。そして、nuri candleといえばアロマキャンドル。nuriさんの手によってブレンドされたアロマの香りにも、心がほぐされていきます。年々進化する動植物のモチーフと手彩色による豊かな色彩。使うのがもったいない! という気持ちを振り切って火を灯してみると、一瞬時間が止まったような感覚に陥ります。空間をじんわりと支配するアロマキャンドルに、あなたも全身の感覚を預けてみてください。
http://nuricandle.com/

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もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

norioはんこ店

【norioはんこ店プロフィール】
1981年生まれ。京都精華大学にて日本画を学ぶ。2005年より雑貨店やカフェなどをベースに“その場でオーダーを受けハンコを制作する”というスタイルで活動を始める。これまでに手がけたハンコはなんと2万個をゆうに超え、中には、「結婚記念に」、「こどもが生まれた記念に」、と人生の節目や、家族の歴史を残すためにnorioさんの元を訪れる方も。現在は、手紙舎鎌倉店でも月に1度、ハンコのオーダー会を開催しています。norioさんが手掛けたハンコは、押す度にnorioさんとのやりとりが甦り、誰かに見せる度に「このハンコはね……」と話したくなる、人とのつながりに彩りを添える力を持っていますよ。
http://www.noriohanko.com/

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もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

noriyukiwatanabe

【noriyukiwatanabeプロフィール】
しんっと静まった空間にポツンと浮かぶ船。古材、針金、錆びトタンを使用して作られたその船に目を奪われた。特別豪勢なわけではない。はたまた洗練されたデザインなわけでもない。しかし、無骨ながらも作る人のエネルギーを感じることのできる作品に魅了されたのである。noriyukiwatanabeの作品は、奇を衒うところがなくシンプルだ。それ故に、見る人によって受け取り方が変わる。それは、小さい頃にみた船舶かもしれないし、現在あなたの住む家かもしれない。現実的なのにどこか空想的な作品にきっとあなたも惹かれることだろう。
https://www.noriyukiwatanabe.info/
Instagram:@_noriyukiwatanabe_

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もみじ市 in mado cafe,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

はしもとみお

【はしもとみおプロフィール】
木という素材から生まれていることを思わず忘れてしまうほど、生き生きとした瞳を持つ動物たち。生きものの愛らしく伸び伸びとした姿がリアルに表現された作品を目の当たりにすれば、きっと誰もが「今にも動き出すのでは」と考えてしまうはず。特定のモデルがいるという彫刻家・はしもとみおさんの作品には、どれもはしもとさんの動物への愛が込められ、魂が宿っているかのようです。今年のもみじ市では、どんな仲間たちに出会えるのでしょうか。他の誰にも真似できない特別な彫刻の数々との出会いを、どうぞお楽しみに!
http://kirinsan.awk.jp
Instagram:@hashimotomio

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出店者紹介,ジャンル:CRAFT

初雪・ポッケ

【初雪・ポッケプロフィール】
その年初めて降る雪を目にしたとき、あなたは何を思いますか? 珍しいものを見て心踊る気持ち、移り変わっていく季節に対する感傷的な気持ち、温かさに恋い焦がれる気持ち……。そんな様々な感情が入り混じった心の動きを、ポケットに入れて持ち続けたいという想いから、「初雪・ポッケ」の名前がつけられました。その屋号の通り、浅野英雄さんと眞左子さんご夫婦が制作している装身具を眺めていると、切ないような懐かしいような、それでいて心の奥底に光を灯してくれるような、えも言えぬ感情が湧き上がってくるのです。もみじ市初出店となるお二人が、河川敷にどのような世界を表現してくれるのか、どうぞお楽しみください。
https://zakurobunko.wixsite.com/hpokke
Instagram:@hatsuyuki.pokke

【商品カタログ予習帳】

【初雪・ポッケの年表・YEARS】

【初雪・ポッケインタビュー】
今年初めて、もみじ市に出店することになった初雪・ポッケの浅野英雄さんと眞左子さん。2018年に移住したばかりだという金沢のショップ兼ギャラリー「ザクロ文庫」にお邪魔し、お話を伺ってきました。

英雄さんと眞左子さん、2人の出会い

ーーーもみじ市に参加されている作家さんはご夫婦で活動されている方も多いのですが、おふたりもまさにそうですよね。それぞれ専門にしていたことは、もともと違っていたんですか?
英雄:僕は学生の時に漆を習っていて、木工もちょっとやったりしていました。卒業してからは色々な場所で働いていましたが、何かしら手作業で作るようなところばかりでしたね。素材が変わるたびに一から覚えることが多く、新鮮ではあったんですけど大変でした。
眞左子:私は学生の時は彫刻科で、その後彫金教室に習いに行くようになりました。ちょうどそのタイミングで欠員が出て声をかけていただいて。ジュエリーとか、工芸とか、その両方をミックスしたようなものを手がけていました。

ーーー異なる分野で活動されていたんですね。どんなきっかけで知り合ったのでしょうか?
英雄:友達と木で作るスプーンのワークショップを開催していて、それに彼女が参加してくれたんです。
眞左子:お互いに作り手ということもあり、誕生日やクリスマスなどの記念日のプレゼントとして、自分たちの手作りのものを贈り合うようになりました。

お互いに贈りあっていたプレゼントたち

ーーーそれぞれが作ったものをプレゼントし合うなんて、とても素敵ですね!
英雄:当時は扇子屋さんで働いていたため、扇子を贈ったこともあります。あとは、片方が作ったモチーフを使って次の作品を作ったりしていました。ひょうたんや靴、本など、モチーフも様々ですし、出来上がるものも色々なバリエーションがありましたね。
眞左子:贈り物を重ねるうちに一緒に装身具を作り始めるようになって、私は一足先に仕事を辞めて独立しました。

山里での暮らし

ーーーそうして、初雪・ポッケの活動がスタートするんですね。
英雄:活動を始めた当初はまだ仕事を続けていたため、仕事とは別の空いた時間を使って一緒に作品制作を行なっていました。会社を退職した後は、本腰を入れて制作に臨もうと京都の山奥の方に移住しました。

ーーーどうしてその場所を選ばれたんですか?
眞左子:制作するのにスペースはそんなに必要ないのですが、やはり音が出てしまうので街を離れて田舎の方がいいかなと思い決めました。
英雄:周りに何もないので、他にすることがなくて。近所を散策するか、制作するかしか選択肢がないので、とても集中しやすい場所でした。他の物事の影響を気にせず、自分たちのやりたいこととしっかりと向き合える環境だったので、2人で楽しくやれていましたね。

ーーーこの頃に作っていた作品はどんなものだったのでしょうか?
眞左子:最初に2人で作ったのはりんごのネックレスです。木と金属が合わさったもので、初期からの定番作品ですね。あとはちっちゃなクマの木彫りのネックレスも、いまだに変わらず作り続けている作品です。
英雄:この時は、セレクトショップで開催される個展のテーマに合わせて、作品を作っていました。“ニュートン”をテーマにしていたのでりんごを選んだり、科学系のイメージからコンパスや三角定規などをモチーフにしたものもあります。

ーーー制作するときは完全に分業ですか? どのようにアイディアを出すかなど、決まっていたりします?
眞左子:それぞれで好きなものを作っているという感じです。自分では出来ないような作業のときは相手に頼んだりして。2人で相談しあって案を出すこともありますね。お互い好きなものを作らないと喧嘩になってしまうので(笑)。

2度目の移住で金沢へ

ーーー金沢に移住されたのは昨年のことなんですね。
英雄:僕が金沢出身なんですけど、長男だからいつかは金沢に帰ろうとは考えていました。ちょうど息子が小学校に上がるタイミングで、少しでも早い方がいいかなと思い、2018年に戻ってきました。もうちょっと山でのんびりしたかったんですけどね(笑)。
眞左子:この建物は、かつては物置きとして使われていた蔵だったんですけど、制作と生活をまかなえるような空間に改装し「ザクロ文庫」と名付けました。直接作品を見てもらえる場所を作りたいなと思っていて、スタジオ、ショップ、ギャラリーの3つが合わさった空間になりました。月に何日とか決めて、その日だけ開けるような形態にしていく予定です。

「ザクロ文庫」の中の様子

ーーーこちらにいらっしゃるお客さんはどういう方が多いですか?
英雄:結婚指輪の打ち合わせにいらっしゃる方が多いですね。京都にいたときは、自分たちが市内に出て打ち合わせしていたんですが、わざわざ外に行かなくてもお客さんに気軽に来てもらえる場所にしたいと、長年思っていたんです。

ーーー体験教室なども開催されているようですが……?
眞左子:シルバーの指輪を作るコースや、糸ノコで切り抜いてピンブローチやペンダントトップを作るコースなどがあります。1回3時間ぐらいで、一つの作品を完成させる内容です。
英雄:展示をしているお店など、外でワークショップを開催することはあったけれど、工房でも開催できればいいなと思っていたので実現できてよかったです。体験教室はまだシステム化できていないので、これからそういう部分を整えていきたいです。いずれは、音楽家の人に演奏とかもしてもらいたいですね。

背景のある作品づくり

ーーー作品は大体、何点ぐらいあるんでしょうか?
英雄:同じものの在庫を抱えているというよりかは、少ない点数でたくさんの種類を用意しているので、収拾がつかなくなってきました(笑)。昔から作っているものもあるし、新しいものもあるし。新しいものだけに絞ってしまうと、「前のアレはないの?」とお客さんに尋ねられることも多くて。

ーーー素材も技法も様々ですもんね。最近はどんな作品が多いのでしょうか?
眞左子:銀の板を糸ノコで透かし、打ち出し技法でほんのりと凹凸をつける“透かし”のシリーズを増やそうと思っています。あとは、原石が入ったちょっと無骨な1点ものの指輪も、最近は多いですね。
英雄:元々石とかも好きで、今まで集めていたものを使ってみようと思い始めました。石にはそれぞれ特徴や意味、歴史などがあるので、その都度勉強しながら使うようにしています。

ーーー他に作品を作る時に意識されていることはありますか?
英雄:動物モチーフの作品を作る時も、ちゃんと意味があったりします。たとえばフクロウは、「不苦労」で苦労知らず、「福籠」で福がこもる、「福老」で不老長寿と福を呼ぶ縁起物とされています。ただ見た目が可愛いというだけでなく、こういう意味を大事にしながら、背景のあるものを作るように心がけています。
眞左子:お客さんでも、込められた意味から作品を選んでいく方もいますね。先日は70歳の古希のお祝いで、長寿を意味するメンフクロウの置物を購入された方がいました。古希には、紫の色のものを贈る風習があるので、頭の上の冠にはアメジストを入れました。

メンフクロウの置物

ーーー作品に込められた意味を知ると、一層愛着が湧いてきますね! これから新たに挑戦したいことはありますか?
英雄:今、金沢の伝統工芸である“加賀象嵌”を2人で学びに行っています。
眞左子:彫った金属に異なる金属を埋めて、その色の違いで模様を見せる技法なんです。金属のタガネという道具作りからやっていて、人間国宝の先生に見てもらえることもあります。

ーーーまた異なる技法を学んでいらっしゃるとは……! 象嵌の技術を習得されたら、さらに表現の幅が広がりそうですね。日々進化し続けているおふたりの作品のこれからを、楽しみにしています!

《インタビューを終えて》
京都と金沢、2度の移住を経て制作活動に打ち込んできた英雄さんと眞左子さん。どちらも歴史ある地ながら豊かな自然に囲まれていて、そんな場所の穏やかな雰囲気が、おふたりの作品からもにじみ出ているようでした。初めてもみじ市参加することになった2019年。この1年も、初雪・ポッケにとってこれまで以上に大きな年となりますように。

(手紙社 藤枝 梢)

【もみじ市当日の、初雪・ポッケさんのブースイメージはこちら!】

もみじ市 in 神代団地,出店者紹介,ジャンル:CRAFT

羽鳥景子

【羽鳥景子プロフィール】
短大で油画を専攻しながらガラス工芸を学び、京都でバーナーワークによる耐熱ガラスの技法を習得。現在は仕事としてのガラス製品・パーツ制作と、アート作品の制作を並行しつつ、耐熱ガラスでの表現の可能性を探っています。阿佐ヶ谷のアトリエではマスコット猫の“まるちゃん”が、日々羽鳥さんに影響を与えているようです。代表作「アートポット」には一目で心を掴まれました。高い技術とセンスを持ち合わせたアーティスト。作品に負けずご本人もとっても素敵。もみじ市のブースで話しかけてみましょう!
Instagram:@hatori_glass
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