【coupéプロフィール】
コロンと丸いコッペパンのようなつま先。ほんのりと光る艶やかな革。手紙社でも圧倒的な人気を誇る、coupéの革靴。これらは全て、中丸貴幸さんと美砂さんのお2人の手仕事から生み出されます。芯から底まで、全て革でできた重厚な作りの革靴は、初めはちょっぴり緊張しますが、履くたび、手入れをするたびに愛着が増し、気がつけば毎日のように足元にいる、とっておきの相棒になってくれます。coupéの靴のテーマは、「10年後も履きたい靴」。革靴デビューがcoupéの私(担当:本間)にとって、それはなんだか「10年後、この靴がぴったりな自分になれますように」と少し背伸びした気持ちを後押しして、足元から自分を丸ごと支えてくれるような安心感を感じさせてくれたのです。革靴デビューを控えたみなさんも、もちろん、革靴を愛するみなさんも、ぜひ一度、coupéの靴を履いてみてください。今年は、昨年のもみじ市の企画から生まれた期待の新作も、いよいよリリースです!
http://coupe-shoes.com/
Instagram:@coupe_shoes
小谷田潤
【小谷田潤プロフィール】
1978年東京生まれ。立命館大学卒業後に信楽と常滑で陶芸を学び2004年八王子にムササビ窯を築窯。もみじ市には初開催時からの皆勤賞ながら、毎回新しいことに挑戦し続けてくれています。常にとことん悩みながら探求していく姿は、名のある作家となった現在でも変わりません。今年は2年ぶりに小谷田さんと初めて出会った地、北海道でのイベントでご一緒でき、新たな引き締まった気持ちにさせていただきました。私(担当:小池)にとってのミスターもみじ市。共に応援している埼玉の某野球チームは、痛快な野球でなんとか踏ん張っています。今年こそもみじ市後の日本シリーズ出場を願って止みません。
http://www11.plala.or.jp/koyata/index.html
左藤吹きガラス工房
【左藤吹きガラス工房プロフィール】
光を内包し、手仕事の妙を感じるガラスの作品を作り続けている左藤吹きガラス工房・左藤玲朗。沖縄の奥原硝子製造所などで経験を積んだ後、兵庫で工房を開き、現在は千葉の九十九里浜で日々制作をしています。自分が今使いたいものとは何か、と試行錯誤の末に生み出されるガラス作品の数々は、寸分の厚みまでも想いを投影したものばかり。水のように流れるガラスの一瞬の美しさを感じる作品に引き込まれてしまいます。
http://www2.odn.ne.jp/tebuki/
【左藤吹きガラス工房・YEARS】
【左藤吹きガラス工房さんインタビュー】
左藤さんの作るガラスは、華美な装飾が無く、一見素朴とも捉えられる形をしています。しかし光を浴びると何色もの色を内包したブルーの美しさを放ち、かつ用途によって緻密に計算された形で、いちど手にすると、虜になってしまうガラス作品です。そうした作品を生み出すため、1000℃以上にもなる窯と、溶けて熱を放つガラスに、日々向き合っている左藤吹きガラス工房。左藤さんがなぜこの世界へ進み、今もなおガラスで暮らしの道具を作り続けるのか、過ごしてきた時代背景を考察しながらお話をお聞きしました。
バブル期とものづくり
ーーー左藤さんは美大を出ていたり、なにか芸術関係のことをされていたのですか?
左藤:一度、美大には入ったものの、途中で辞めた後にものづくりとは関係のない大学に通っていたんです。ただ沖縄に行った時、陶芸やガラスの工芸品などを見て、何か手に職をつけたいと思っていました。最初は陶芸にしようと思っていたのですが、その頃の琉球ガラスは勢いがあって、この世界で食べていこうと思ったのがガラスを志したきっかけです。まだその時はバブル期で、周りは大手企業に就職したりもしていました。その頃自分はというと、大きなガラス工房は観光客で入り乱れ、見物するような所というイメージが強かったので、敢えて小さい工房で修行し、貪欲に周りのものを吸収したいと考えていたんです。その工房では、コップや花瓶、水指などが多く、今の琉球ガラスに比べて色や形は随分シンプルだった気がします。
ーーー沖縄のガラスというと気泡と鮮やかな色をした琉球ガラス、というイメージが強いですよね。
左藤:沖縄って戦後から米軍相手に商売していたので、実はアメリカ寄りのデザインのものが多かったんですよ。今よりもっとシンプルで、実用的なガラス製品でした。そこから国内旅行で他の地域から日本人が観光で訪れるようになって、今の形が出来上がってきたのではないでしょうか。
ーーー昔はテイストが全く違っていたんですね。
左藤:そうですね。沖縄のガラスもですが、吹きガラスでちょっと歪んだ形の作家ものの作風は90年代後半が全盛期で、鮮やかな発色の作品など好まれていました。それから2000年あたりに北欧デザインの流れを汲んだものが取り上げられるようになっていき、シンプルなラインが流行っていったんです。
ーーー北欧デザインでガラスと言うと「ittala」が有名ですよね。
左藤:まさにあの感じの薄さと鮮やかな色、何より日常使いがしやすいデザインというのが多くの人に受け入れられたポイントではないでしょうか。その頃、自分は兵庫で工房を作り、卸の仕事をメインに活動していました。器店や雑貨店といったお店に対しての営業が主で、先程言った北欧デザインに共通するシンプルなガラスを提案して回っていたんです。使い易いのもあり、オーダーは定期的にあってよかったですよ。ただ自分の作りたいものと出来上がるものに差があって、なかなか自分の技術が追いつかず、非常に苦労しました。
ーーー自分が思うものが作れた、と感じるようになったのはいつ頃なのでしょうか。
左藤:もうずっと悩んでいましたよ。それこそ2、3年前までは思うようにならなかった。今では何でも作れると言うわけではなく、ある程度ガラスを扱えるようになった、という方が正しいかもしれません。それまでは何が原因でうまくいかないのか、自己分析が出来ていませんでした。今の作っている色ガラスの発色なんかは15年ほどかかって今の形に落ち着きました。ちょっとした素材の掛け合わせで、緑が濃くなったり黒っぽくなってしまったり、透過色・反射色と言った透けて見える色と、そうでない色のバランスとか、ようやく最近良い色になりました。
自分の力で伝えていく
ーーー素材を自分の思うようにコントロールするというのは、一生付いて回るのでしょうね。
左藤:苦戦しながらも日々お店からの依頼のものを作っていたんですが、その頃、民藝がもてはやされることがあったんですよね。何度もブームになっていたので、冷静に見ていたのですが、陶芸などはとても注目されてました。ガラスと違って、陶芸は随分前からひとつのジャンルとして確立されていて、有名な窯元が地方にあったりと勢いもありました。それで民藝ブームの時はこの窯元がとても繁盛したんです。だけど、それが過ぎたあたりからピタリと窯元の動きが無くなっていくんです。こういう器を作ってほしいとか、そういう依頼が来なくなって仕事にならなくなる。依頼がないと何を作っていいかわからない、自分からどう動いたらわからない、そんな雰囲気でした。芸術家ではなく、あくまで職人と呼ばれるの人たちの現状を見て、何か対策をしなければと感じたのを覚えています。
ーーー民藝ブーム、たしかにありますよね……。今では窯元でも更にクリエイティブな所も増え、自ら発信していく様子を目にします。
左藤:自分はその頃、民藝風の作品とは一括りにされたくなくて。アンティークやブロカントの様式が好きだったので洋風のものが作りたくなっていました。その後今の工房がある千葉・九十九里に移ったんです。
ーーー千葉に移った理由などあったのでしょうか?
左藤:単純に東京に近い場所に行きたくて、その周辺で工房にしやすい条件の所を探していました。やはり東京だとたくさんの人に見てもらえます。千葉に移る前あたりから徐々に卸の仕事を減らしていき、直接お客さんに買ってもらいたいと思うようになりました。
ーーーそれまで順調だった卸を少なくしたのですか?
左藤:卸って上代から何割か引いて販売しますよね。そうすると普通だったら100個売れて元が取れるものが、150個とか200個とか作って売らないといけなくなる。どんどん効率だけを求めていくようになって、ひとつ当たりに掛けられる時間も無くなるわけです。そうなると必然的にクオリティも落ちてしまうし、利益も少なくなる、そんなことを感じるようになりました。新しい作品も作りたいけど、そこに使える時間も無く悪循環に陥ってしまうので、自分の力で販売できるよう仕組みを作っていこうと思うようになりました。
ーーー思い切った決断だったのですね。それまでは卸先が左藤さんのガラスを販売してくれていたけれど、自身での販売となると苦労もありますよね。
左藤:インターネットで販売するのも良いのですが、やはり実物を見ないで買うということに、その時はまだ抵抗がある時代でした。それでも年数回工房を開けて販売会のような形を取ると、たとえ見に来れなくても作り手が販売してるという、血が通ったイメージが伝わって購入に繋がりました。やはり人が作って人が販売している様子が知れると安心して下さるんですよね。
ガラスをデザインするということ
ーーー左藤さんはInstagramも活用したりと、常にどんなガラスを作っているのか一目でわかる工夫もされてますよね。
左藤:インターネットが普及して、ネットショップやSNSが増えたお陰で、ネットに対する敷居が良い意味で低くなりました。やはりInstagramで情報発信をしていると見てくださる方がたくさんいますね。工房だけでの活動でもネットで自分の作品を見てくれる機会がこれだけ増えたので、うまく活用していこうと色々考えています。ネットに加えて、もみじ市のように、野外フェスでの対面販売も続けていきたいですね。直接顔を合わせることで得られる反応は何物にも変えがたいです。
ーーーイベントで販売していて気が付いたことはありますか?
左藤:お客さんの反応もこれまで知らなかった反応でしたが、同じものづくりの知り合いが増えたのが印象的です。僕は美大を出ていたわけでも大きい工房に勤めていたわでもなかったので、周りのガラス仲間がほとんどいませんでした。それが、もみじ市に参加することで、若手の作家さんと意見交換できるようになり、ガラスを取り巻く環境により敏感になりました。第一線で活躍するガラス以外の素材を扱う作家さんとも話せるので、いい刺激になります。
ーーー他の作家さんとの出会いで、左藤さんの視野が広がっていったのですね。左藤さんの作品にはガラス以外にも金属を使用した蓋物などもありますよね。異素材を組み合わせた作品はどのように生まれたのですか?
左藤:元々金属加工には興味があって、2011年の震災でガラスの窯が動かせない時期に作り始めたのがきっかけです。真鍮や鉄を溶接やロウ付けし、壁がけ時計のカバーを作ったり照明を作ったり。インテリアが好きで、そういう方向のガラス作品がこれから作っていけたらと思っています。
ーーー今度はインテリアに! ガラスを使ってどんなことができるのか楽しみですね。
左藤:今度は照明にもっと力を入れていきたいですね、例えばスタンドライトなど。ガラス以外の部分が既製品だと、どうしても全体のバランスに合わなかったりしまうので、そういったところにまで手を入れていきたいです。あとは、作っているガラスの青い色をもっと突き詰めていきたいです。元は沖縄にいた時に見た古いガラス瓶の色が、綺麗な青色をしていて、あれを再現したいと思って試行錯誤していたんです。あの時見た鮮やかな色のガラスで作品が作れたら、そう思います。
ーーーどんどん進化していく左藤さんのガラスをこれからも楽しみにしています。
《インタビューを終えて》
左藤さんのうつわは、ガラスの用途による厚みの違いから、見え方までトータルで考えられたものです。時代の流れを感じとり、その時折で求められるものとはなにかを追求していった結果、機能性と美しさ、どちらも兼ねそろえた左藤吹きガラス工房の作品が生まれたのです。左藤さん自身は、「あくまで自分は職人というよりもデザインをする側だ」とインタビュー中仰っていました。使ってくれる人に想いを馳せ、使いやすい形とは何か、美しさとは何か、今できるガラスとしての最高の形をこれからも作り続けていくのでしょう。
(手紙社 上野 樹)
柴田菜月
【柴田菜月プロフィール】
やきもの作家。「生活に少しのいろどりを。少しの楽しさを。」をモットーに、マラカスや時計、オブジェなどを制作。彩りは美しく、手触りは心地よく、奏でる音も気持ちよい、思わず笑顔がこぼれるものばかり。なんとも言えない、とぼけた表情に心くすぐられる方が続出! 疲れた心や苛立った気持ちをほぐしてくれるようです。中でも、鳥や猫、うさぎをモチーフにしたシャラシャラと音がなるマラカスがオブジェとしても人気。たまに「巨大なものをつくりたい欲求」が抑えきれなくなり、大きな作品を作り上げたりもするそう。柴田さんは、予想外のトラブルが起きても、ワクワクを味方にして、さらに楽しい作品へと昇華させてしまうパワーの持ち主。同じものはつくれないというだけに、一つひとつの形も違えば、表情も異なるため、お気に召したときは、ぜひ手に取ってみることをおすすめします。ほんわかゆったりとした気分を届けてくれます。
Instagram:@natsuki.shibata
【柴田菜月の年表・YEARS】
【柴田菜月さんインタビュー】
とぼけた表情の動物が魅力的な柴田菜月さんの作品たち。作家としての年表というよりは、その根幹となっているプライベートな部分でのお話を伺いました。柴田菜月さんのユーモアの源があふれています。
猫への愛に溺れ、夢中になる
ーーー柴田さんの作品に動物は欠かせない存在だと思いますが、いつ頃から動物といっしょの生活をされていたんですか?
柴田:実家にいるときは、だいたいずっといましたね。鳥やウサギ、犬がいたときもあったんですけど、特に小学校のころから大学まで、1匹の猫とずっといっしょにいたので、猫への愛情が激しいんだと思います。人とのコミュニケーションより動物とのコミュニケーションのほうが得意みたいになっちゃって……。これなしでは生きていけないという存在だったんです。ずっと抱っこしているとかではないんですけど、ただ、心の支えとしての猫が凄すぎたっていう。でも猫自身は、やはり世話をしてくれる母が一番好きなようでしたけど(笑)。
ーーー相当な溺愛ぶりだったんですね。具体的にはどんな感じだったんですか?
柴田:例えばですけど、落ちたひげ1本でさえも、愛おしいんです。だから、ヒゲ入れとかをつくって、とっておいたりして。ヒゲをつんつんするだけで、もううれしくて。タッチするとつくタイプのライトがあったんですけど、勉強しているときに、猫が尻尾でつけたり消したりするのを見ながら、ついてるー、消えてるーって、幸せを噛み締めていましたね。相当重い愛ですよ。みんなそうなのかなと思ってましたけど。あとは、ひたすら観察して描いたりしていたのも、溺愛の一種だと思うんです。穴が開くほどみてましたから。まずるのところが可愛くてたまらないとか、その時によおく見すぎたせいだと思います。それが、今の作品に生きているかもしれないですね。もう溺愛というより、偏愛の方が正しいかもしれません。なんでこんなに偏ったちゃったんだろう。“ひとりっこ”っていうのが大きかったかも。兄弟代わりのような気持ちだったのかもしれません。
ーーーー今はなにも飼っていないんですか?
柴田:動物のことを考えすぎて飼えなくなるという、こじらせぶりを発揮しています。留守にもするし、我が家にいるより、もっとかわいがってくれる家があるんじゃないかとか思ってしまって。でも、猫をみると、ついキャーキャーゆっちゃいますね。
爆走! 車への愛
ーーー現在の愛車がパンダだということで、車もお好きなんですよね。そもそも興味を持ったきっかけはなんだったですか?
柴田:小学校の時に「ナイトライダー(注1)」っていう番組が大好きすぎて、再放送なので変な時間帯にやってたんですけど、めちゃくちゃ頑張って、みてましたね。
ーーー車が人間の言葉を喋べるやつですね?
柴田:そうです(笑)。一人っ子で男兄弟もいないのに、本当に夢中で。それがきっかけかもしれないと思って。もうそれくらいしか思いつかないですね(笑)
注1:『ナイトライダー』は、アメリカのカーアクションTVドラマ。私立探偵機関の調査員、マイケル・ナイトと特殊装備を搭載したドリーム・カー『ナイト2000』とともにさまざまな事件を解決する。
ーーーそこから、カーデザイナーのことを知るようになったのは?
柴田:中学の時からの仲良しだった子のお家が、ベスパとミニカーの輸入代理店だったんです。しかも、ベスパを初めて輸入した大元の家の子で。その縁もあって、モーターショーのお手伝いしにいったりしてたら、車にぐぅーんって引っ張られるように、もうどっぷりその世界に浸ってしまいました。一人でモーターショーとか見にいってましたから。だいぶおかしくないですか? 女子高生ですよ(笑) しかも、その頃、よく読んでいたのが、「カー・センサー」とか車の雑誌! 真剣に値段の相場とかを見てました。ずっと値段を追っていて、売っているところが九州だったら、買うはずもないのに「くぅーっっ!!」っていいながら、悔しがっていたくらいです。
ーーー90年代の『olive』でもベスパとか載ってましたよね?
柴田:でも、それとは全く違う流れですよ。なにせ、こっちはモーターショーですから!(笑) 免許が取れる年になったら、もう制服のまま取りに行ってました。
ーーーカーデザイナーを諦めた理由は?
柴田:中学高校は、女子美だったんですけど、自分の学校にはカーデザインを学べるところがなくて……。でも、一時、受験しようと考えたんですけど、そのためだけに時間を割くのが馬鹿らしくなってきちゃって、この学校の中で入れるところにしました。染色とかが色が綺麗だったので、工芸科にしたんです。でも、粘土をペチペチやりはじめたら、カーデザインやるのは、この後でもいいかなと思いはじめて、どんどん陶芸に夢中になってしまい、気づけばカーデザイナーへの道は消滅……。でも、車への愛は、所持欲としては残っていますよ。
ーーー今もずっと古いパンダを乗っていらっしゃいますよね。
柴田:実は、この時に好きになった車を手に入れて、乗ってるんですよ(笑)。
フィンランドに取り憑かれる!
ーーーフィンランドのことは、なにきっかけで夢中に?
柴田:実は、旅を強行プランで組んだことがありまして。それは、タイを旅して帰ってきて、成田に一泊して、次の日からフィンランドというやつです。うっかりそんなスケジュールになっちゃったんですね。その時にフィルムのカメラをずっと持ち歩いてて、タイで撮った写真がカメラの中に入っている状態で、フィンランドでも写真を撮ったんですよ。現像してみて、驚いたのが、その色の違い! タイとフィンランドで、全然色が違ったんですよ。同じ空でも、なんか違う。フィルターがかかったように、それぞれの国の色があるんだなと気づきました。その時に感じたフィンランドの色がたまらなく好きで、そこにあるガラスのものとか陶芸っぽいものとかオブジェが、そこの空気といっしょに見るとすごくいいなと思いました。
それでフィンランドに留学したくて、政府観光局に行ったりしてました。とりつかれたような状態です。その頃は、フィンランドがこんなにも有名じゃなかったから、フィンランド語も習ってはいましたけど、習えるところも2箇所くらいで、ひとつは出版社がやってるような状態でした。そんな中で、フィスカルスというアーティスト村のことを知ったんです。クラフト村みたいな、アーティストの方がたくさん住んでいる場所のことです。今は、もう有名になっているんですけど、英語の資料もあんまりない時にみつけちゃって、行ってきました。そこで泊まったホテルが、涙が出るほど素敵ところで、個人でやってる小さいホテルなんですけど、それぞれにアーティストのものがあるような部屋になっていたんです。環境も、湖があって、羊を飼ってる家があって、散策ができるところがたくさんあって、いろんな工房が点在してて、「もうなんだここ、楽しすぎる!」って感極まりました。ちなみに、その頃、たまたまその街に住んでいる日本人の作家さんにバッタリ会ったんですけど、「こんなところに日本人がいるなんて!」とすごく驚かれました。それほど、マイナーな場所だったんです。
ーーーそれ以降もフィンランドには行かれているんですか?
柴田:行ってますね。フィスカルスにも再訪しましたよ。ホテルはなくなってましたけど、羊はいました。しつこいですね、私(笑)。フィンランドは、地図上で一番上まで行ったこともあります。冬に深夜特急に乗って、扉が凍ってて開かなくなったことや、ニューイヤーを過ごしたりしました。農村にステイしたことがあって、スノーモービルを運転させてもらったこともありますね。今でもまた行きたい国です。
これからの野望
ーーー同じものは作れないとおっしゃっていましたが、昔と今の作品の違いはありますか?
柴田:昔は、もうちょっと動物たち暗い感じだったんですよ、寂しげな感じというか、うつむきがちな感じ。どんどんあっけらかんとしてきちゃって(笑)。フィンランドが好きだったのも、暗い部分がよかったんですよね。大学の時に日光アレルギーがひどくなって、そこから日陰日陰へと。日光に当たっちゃうと肌がただれてひどく荒れるので、本当の日陰の生活でした。余計フィンランドとかの日差しの少ない状態の国に憧れたのかもです。暗い感じに。
ーーー今後は、どんなことをやりたいと考えているんですか?
柴田:いろんな国でつくってみたりするのも楽しいなと思っています。本来、旅好きというのも関係してると思うんですけど。デザインだとネット環境があればできると思いますが、陶芸だとそこの場所に行かないとできないので。粘土は、その土地のものを掘るわけだから、めちゃくちゃ土着なんですよ。粘土が取れない土地もあるけど、近くの土を使っているので、大きくいえば、その土地の土ですよね。場所によって、触り心地も全然違うし、水も全然違う。降ってる雨も違うから、粘土になる工程も違う。土が違うと、どういう色の出方をするかがわからないから、おもしろいと思います。ただ、窯って、その場に設置しないとダメなんですよ。でも、陶芸のレジデンスみたいなものが世界に何箇所かあります。土は容易に持って帰っちゃダメそうですしね。出来上がったものにならないと持って帰れなさそうだから、そういうことをやってみたいですね。
ーーーすごくおもしろい試みだと思います! 実現できることを楽しみにしています。楽しいお話をありがとうございました!
《インタビューを終えて》
インタビュー中に、ご自身のことを「なんてしつこい!」と笑いながら話していた柴田さん。私には、好きなものをずっと好きでいられるのは、探究心や好奇心が旺盛だからこそだと映っていました。これまでに何度かお話を聞かせていただいているのですが、その度に新しい発見があり、飽きることがないのは、そのバイタリティーあふれるエネルギーを柴田さんが発しているからだと思っています。いろんなことを笑って受け入れるおおらかさ、そのパワーとセンスが、作品に生かされているのだと思います。これからどんな作品を展開していくのか、本当に楽しみです。
(手紙社 樫尾有羽子)
【もみじ市当日の、柴田菜月さんのブースイメージはこちら!】
Chappo
【Chappoプロフィール】
なぜ人は帽子を被るのだろう? 服は着るのが当たり前だし、裸足で出歩くわけにはいかない。でも、帽子がなくたって別に困らないような気もする。20個以上の帽子を持ち、ほぼ毎日何かしら被っている私にとっても、帽子はつかみどころがなく不思議な存在だった。
そんなときに出会ったのが、一般的なものよりも高さのあるChappoの麦わら帽子。珍しい形のその帽子を被りこなすことができるのか、ドキドキしながら試着したのをよく覚えている。ところが、被った瞬間にそんな不安も吹き飛び、いつもとはちょっと違う自分になれたような、胸の高鳴りを感じたのだ。帽子の形に色、使われている素材やちょっとした飾りなど、細部まで考えて作られているChappoの帽子は、シンプルで無駄がない。だからこそ、人が被ることによって初めてその真価を発揮する。被る人の魅力を引き出しつつ、帽子自身も被られることでより一層の輝きを放つように思える。
いまだに帽子を被る理由はよく分からないのだけれど、被るたびにあのとき味わった気持ちが蘇ってきて、鏡を見るのが楽しみになってくる。あなたもChappoの帽子を被って、そんな心ときめく瞬間を積み重ねてみませんか?
https://www.chappo.co/
Instagram:@chappo_suda/@chappo_boushi
大護慎太郎 / atelier coin
【大護慎太郎 / atelier coin】
鈍く光る真鍮に繊細な針の形。とある時代の異国で使われていたかのような雰囲気を纏った時計を、東京吉祥寺のアトリエで作り続けています。その時計は、小さな鎚とルーターで細部にまでデザインが施されます。彼の作品は、ドアノブを土台とした砂時計や、木の引き出しに組み込んだ箱時計、振り子の原理で音が鳴るオブジェなど、時を感じるもので溢れています。それらは、自分が使いたくなる時計であると同時に、大切な相手を想い使って欲しくなるときめきを秘めた時計でもあります。
竹中悠記(出品のみ)
【竹中悠記プロフィール】
ガラス作家。パート・ド・ヴェールという技法使い、時間と手間をかけて、優しく包み込むようなガラス作品を制作しています。それは、まるで万華鏡の中で咲き乱れるきらびやかな華のよう。一つひとつ描かれた線や模様は、時が止まったかのごとく、永遠の美しさを保ち続けます。長い年月を経てもなお、美しい器たち。ずらりと並べば、七色の光が差し込む湖の水面のようにも見えます。もみじ市当日に現われる、この美しいガラス作品を、ぜひ、眺めにいらしてください。
https://ukiroosh-glass.wixsite.com/ukiroosh/blog
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竹村聡子(出品のみ)
【竹村聡子プロフィール】
陶芸家・竹村聡子さんに出会ったのは2年前。まるで命を吹き込まれたかのような存在感を放つ銀彩の動物たちに、一瞬にして心を奪われたことを鮮明に覚えています。常に新しい表現を模索し続ける竹村さんの作品は、出会うたびに違った表情で私たちを楽しませてくれます。美しい乳白の器は、手にした瞬間にすっと馴染む柔らかな質感。ツヤのある器は、豊かな釉薬の色彩が魅力的です。手仕事でなければ実現できない繊細な表現を、どうぞじっくりとお手にとってご覧ください。
https://www.satokopo.com
Instagram:@satoko.takemura
【竹村聡子の年表・YEARS】
【竹村聡子さんインタビュー】
今年で3回目のもみじ市出店となる陶芸家・竹村聡子さん。どこか神秘的で、いつまでも見つめていたくなるような魅力を持つ作品が生まれるまでには、一体どんなストーリーがあったのでしょうか。担当の富永琴美がお話を伺いました。
仏画との出会い
ーーー今回のもみじ市のテーマが「YEARS」だと聞いたとき、どう思いましたか?
竹村:「気がついたら、ここまで来ていたな」っていう気がしました。あっという間だなあと。過去のことを振り返るのも、先のことを想像するのも不安だったので、とにかくその日その時に集中していたら、今に辿り着いたような感じです。
ーーー年表を作ってみて、何か気づくことはありましたか?
竹村:ハッとしたことがあったのですが、私の中で“仏像”の存在がとても特別だったなということを思い出しました。今でも仏像好きなんです。
ーーー年表には、小学校のときに仏画を描いたとありましたね。
竹村:小学6年生の時、担任の先生が美術好きな方で、ある時「仏像を描いてみたら?」と勧められました。初めは仏像が怖かったのですが、実際にやってみたら描きながら気付くことがたくさんあって、「これは美しい!」と感動しました。その時から、なんとなく美術に興味を持ち始めました。仏画を勧めて下さった先生の存在はとても大きかったなと思いますね。
ーーー小学6年生にして、仏像の美しさに魅了されたのですね!
竹村:言葉でどう表現したら良いか難しいのですが、「内にも外にも目には見えないただならぬ何かがある」と思ったんです。人の手から作り出されたものが経年変化で不思議な生命力を帯びつつ、静かに朽ちていく姿を美しいと思える部分も魅力的でした。
ーーー中学校・高校時代でも、何か制作活動はされていたのでしょうか。
竹村:中学の時は美術部に入り油絵を描いたりしていました。高校では、何故か運動部に入ってしまったんですが(笑)、それでも美大に進みたいとはぼんやり思っていて。しかし当時はインターネットもまだ一般的ではなく、美大に入るための情報や選択肢を調べる方法もわからなくて、そうこうしている間に、美術とは全く関係ない大学に入っていました。大学に入ってからはなんとなく生きているだけで日々が過ぎていくことが怖くなって、「私は昨日生きていました」という証拠を目に見える形に残せる何かをしたいという思いから、陶芸のサークルに入ったんです。陶芸=美術という認識で始めたわけではありませんでした。
ーーー竹村さんが陶芸をはじめたきっかけは「生きた証拠を残したい」という思いからだったのですね。
竹村:陶芸は形にも残るし更には使えるという部分で、より安心感がある気がしたんです。作っている時はとても心が落ち着きました。と言いつつ実際は、幽霊部員だったんですけどね(笑)。
ーーー大学を卒業されてからは、“せともの”で有名な瀬戸で過ごされていたんですよね。
竹村:本当になんとなく瀬戸へ行ったので、瀬戸にいる頃も実は陶芸をほとんどしてなかったんです…。周りの人達には「いつ陶芸辞めるんだろう」って思われていたし、「お前は陶芸家になれない」って直接言われたこともあります。その時は言われるままで否定もできませんでした。今では毎日欠かせない轆轤(ろくろ)も大嫌いでしたし。
ーーー私だったら「陶芸家になれない」なんて言われたら、そこで心が折れてしまう気がします。
竹村:やめる勇気がなかっただけかもしれませんが、今でも続けられていることが自分でも不思議すぎて、人生ってよくわからないなって思います。当時は自分が陶芸で何を表現したいかがわからなかったので、アルバイトを掛け持ちしながらあちこち美術館を巡ったり、その他にも思いつくことをいろいろしていました。その中で自分が「いいな」って思うものを集約して、目指したい感覚が見えてきてから陶芸で形にしたいと思っていて。今になってやっとその時の遠回りや道草は無駄ではなかったかなと思えるようになりました。
目指したのは、藤田嗣治の乳白色
ーーー画家・藤田嗣治の作品に出会ったのはその頃でしょうか。
竹村:美術館巡りをしているうちに、藤田嗣治の世界に出会いました。彼の描く乳白色の雰囲気に近づけたいと思ううちに、使いたい土や釉薬の表現の方向性が決まったんです。
ーーー竹村さんの器は、手触りも女性の肌のように滑らかで、どれも本当に美しいですよね。そして、どこか神秘的な印象があります。
竹村:日常的な器を作るのが元々苦手というか、日常と非日常のギリギリの部分を描いていきたいなと思っているんです。私の作品を手にして下さった方の中には、蓋物の器にヘソの緒や遺骨を入れたり、酒杯を仏前に供えて使っている方もいらっしゃるらしくて、生物の生と死に関わる場面で使われることも比較的多いみたいなんです。そういう部分は仏像の存在意義に少し近づけていたらいいなって思います。
ーーー地元の長野に戻られてからは、しばらく飯田市川本喜八郎人形美術館に勤められているんですよね。
竹村:陶芸だけで生きていく自信と収入が無かったのと、生涯通じてなにかしら美術に関わる仕事をしたいとは思っていたので、ちょうど美術館に求人が出ていて応募をしたら運良く採用してもらえました。人形美術館に勤めている間は、川本作品に関わる事柄(日本の伝統芸能、様式美、仏教、人形アニメーション等)を勉強できて非常に得るものが多く、有意義な時間だったなと思います。
ーーー美術館での経験が、今の作品にも生かされているのでしょうか。
竹村:美術館内にあるスタジオで東京のアニメーション会社のコマ撮り映画の公開撮影が一ヶ月間行われたことがあって、プロのストップモーションアニメーターの仕事を間近で見られる機会があったのですが、これがとても印象的でした。当時はたった一つの器を作るのに時間がかかり過ぎるということに悩んで行き詰まり、半ば陶芸の道を諦めかけていた時だったのですが、プロのアニメーターの方が丸一日撮影をしても3秒間程の映像しかとれないということをその時知りました。そこで、コマ撮りアニメーションの世界は陶芸よりも果てしなく細やかで、手間暇をかけないと良いものは作れないということに気づかされました。それで、自分の制作に対して前向きに思えたんです。ものづくりは時間をかけあたりまえなんだなって。プロの方の仕事への姿勢や、会話の端々から感じた言葉に奮い立たせられて、背中を押してもらって、意識が大きく変わりました。
ーーーひとつの器に時間をかけて全力で向き合われているからこそ、竹村さんの作品には、どれも命が吹き込まれるように感じられるのですね。
竹村:時にはどこかで手を抜けないかとうっかり考えてしまうこともあるんですけど、そうやって作ったものは結局ボツになります。これからも出来る限り丁寧に手間暇かけて作りたいと思います。
銀彩の器のはじまり
ーーー「工房からの風」に出店して作風が変わったとありますが、どのようなきっかけだったんでしょうか。
竹村:工房からの風には力試しのつもりで過去何回か応募していて、はっきり覚えていませんが多分4回くらい選考落ちしていたんです。当時は呉須(藍色の顔料)を使った作品をずっと作っていたのですが、今の作品のように銀を使って鶏の絵を描いたマグカップの写真を送ってみたら、ようやく選考通過しました。そのとき、工房からの風のディレクターの方が「この銀彩の方向性がいいですよ」と言って下さったことをきっかけに、現在のスタイルが確立していきました。
ーーー銀彩の器のはじまりは、そこからだったのですね!
竹村:瀬戸にいる頃から銀は使ったことがあったのですが、その時から魅力的な素材だなと思っていました。初めて銀で描いた鶏は、家で飼っていた鶏がモデルでした。とても可愛がっていましたが鶏は短命でなんだか悲しかったので、器に描いて焼き付ければ、ずっと生きていてくれるかなと思いました。銀は静かに酸化をして少しずつ表情が変わってくるのですが、そこに生命に似た何かがある、という気付きがありました。
ーーーインスタグラムや展示などで作品を拝見していますが、いつも作品から「何か新しいチャレンジをしよう!」という竹村さんの気持ちを感じられて、本当に素晴らしいなと思っています。
竹村:自分では全然成長していないなって日々不安に思っていたんですけど、そう言っていただけて嬉しいです。周りの方達のお陰でなんとか歩みを止めずにいられるのかなって思います。背中を押してもらえるキーパーソンのような存在が随所で運良く現れてくれるような気がします。
ーーー最近は発色が鮮やかでツヤツヤしている作品が増えてきたように感じていますが、なにか意識していることはありますか?
竹村:実はガラスの世界にも憧れがあって、それを意識しているかもしれません。釉薬のガラス質の特性も表現で生かせたらと。陶磁器じゃなくてガラスかな? と一瞬でも疑問に思って器と接して楽しんでもらえたら、と思ったりもしています。
ーーー今回のもみじ市公式サイトのアイコン画像や出展者紹介のトップ画像もガラスのような美しさをもった作品ですよね。
竹村:今回紹介ページで使っているランプシェードと酒杯の作品は、去年展示を兼ねて旅行をしたデンマークでの出会いから生まれたものなんです。滞在中はとにかく毎日美しい気持ちでいられたんですよね。そんな空間の中で、皆が集う場に必ずあって自分でも作れるものは何かと周りを見渡した時に、ランプシェードと酒杯が目に付きました。北欧は白夜があることから明かりの使い方も印象的で、その時の気持ちを思い出してランプを作りました。
ーーーこれからチャレンジしてみたいことがあれば教えてください。
竹村:夢のような話になってしまいますが、北欧に短期留学をしてみたいなと思っています。デンマークの滞在経験がとても清々しかったのと、20代の頃の経験を通して培った“感覚的な貯金”がそろそろ無くなる気がして。海外に行くと自然と発見や感動を多く得られるので、異文化の考え方・生き方に身を置いて色々と学んでまた新たな感覚を掴んで制作に落とし込んでみたいです。
ーーーもみじ市に出店することで、変わったことはありますか?
竹村:数を作れるようになりました。手紙社さんの「東京豆皿市」などにも声を掛けて頂けるようになり、制作に迷う時間よりも「頑張らなきゃ!」と手を動かすことができるようになった気がします。自分にできるのかと弱腰になって逃げることはなくなりましたね。たくさんの方に見て頂ける機会を与えてもらって、本当にありがたいです。「頂いた仕事は出来る限りの全力を出してやってみよう」って自然に思えるようになりました。自分がどこまで作っていけるかなという不安はありますが、とにかく夢中でやっています。
ーーー3回目のもみじ市、どのような2日間にしたいですか?
竹村:今までよりも、充実した内容の展開にしていきたいですね。あとは、事故なく頑張りたいと思います! 2日間どうかお天気に恵まれて、出店される方々やお客様、手紙社とボランティアスタッフの皆さんと楽しく過ごせますようにと願っています。
《インタビューを終えて》
多くの時間をかけ、全神経を注いで作られる作品の数々は、まるで“命”が吹き込まれているかのように神秘的で美しい輝きを放ちます。竹村さんの「生きた証拠」とも言える器は、手にした人の人生に寄り添い、特別な日々を紡いでゆくのです。今年のもみじ市では、一体どんな作品との出会いが待っているのでしょうか。今からその瞬間が楽しみでなりません。まっすぐで誠実な竹村さんの思いが溢れる空間を、どうぞ覗いてみてください。
(手紙社 富永琴美)
谷内亮太
【谷内亮太プロフィール】
京都で生まれ育ち、現在北白川でギャラリー雑貨店「ちせ」の店主を務める彫金作家・谷内亮太。真鍮やシルバーを削り出し、万物のつながりをテーマに動物や植物、星をモチーフにした指輪やアクセサリーを生み出しています。月の満ち欠けのリングや太古の生物のブローチなど、どこか神秘性を感じさせる作品に目が離せません。物語から飛び出してきたかのようなアクセサリーに、思い思いのストーリーを紡いでみてください。
https://ryota-t.chise.in
charan 山田亜衣(出品のみ)
【charan 山田亜衣プロフィール】
東京生まれ。2000年より、charan(ちゃらん)という屋号で銅・真鍮雑貨と真鍮アクセサリーの製作を開始。「charan」とは、山田さんご自身が作った「茶欒」という造語からきており、自分が作った作品を部屋に飾ることで、“ひとりでお茶を飲む時間や、お茶の間で団欒するようなあたたかい空間を作りたい”という想いが込められているのだそう。その由来の通り、山田さんの生み出す作品は金属でありながら、その表情のゆらめきから体温のようなあたたかさを感じます。絵本のワンシーンを切り取ったかのような、乙女心をくすぐる世界観も魅力のひとつ。ぜひ、作品を通して山田さんの紡ぐ物語にふれてください。
http://charan-ai.cocolog-nifty.com